WEB-DIARYfor web1.0

2022/10/26(FRI)

「最近どう?」

「そういう抽象的な質問やめれ」

「あらそう。ごめんね。最近なんか面白いことあった?」

「まだ抽象的だな」

「そう? うーんと、じゃあ、最近映画とか観た?」

「映画”とか”ってなんだよ。映画の話をしたいのか映画を含めたエンタテインメントを観たか、と訊いてるのかどっちなんだ」

「あなたってさ、やっぱりモテたことないでしょ」

「うん。どうも面倒臭いらしい」

「でしょうね。で、最近観た映画で面白かったの、ある?」

「『ピノキオ』を観たな。けっこう面白かったよ」

「ああ、最近実写版でリメイクされたヤツね。印象に残った場面とかあった?」

「ピノキオにさ、命を与える役割で妖精が出てくるんだよ」

「いわゆるプルーフェアリーね」

「ブルー……ああそういやなんか青っぽかったな。背中の皮がすごく伸びてて羽みたいになってた。変な青い滓みたいなのが散ってたし」

「それは背中の皮じゃなくて、羽だと思うよ。それに青い滓、ってそれは妖精の粉。滓ってあんた」

「そうか。あれって羽なのか。道理でふわふわ空を飛んでたわけだ。滓を飛ばしながら飛んでるんだな」

「だから滓じゃないっていうのに」

「滓じゃないとしたら鱗粉か」

「鱗粉って云われると、急に昆虫みたいに思えてきちゃうな……そういえばブルーフェアリーって、元々のアニメだと、金髪ですごく綺麗な女性だったんじゃなかったっけ」

「ああそうなの。元は知らないけど、こないだ観た時は黒人の女の人だったよ」

「ふーん。いわゆる多様性に配慮した、みたいなことなのかしら」

「しかもなんか不細工な顔してるんだよ」

「そういうことを云うんじゃないの」

「でも不細工だったよ。しかもスキンヘッドなんだよ」

「別にいいじゃないの、スキンヘッドだって」

「でも歌は超絶に上手いんだよ。なんか聴いてるだけでうっとりしちゃうんだよ。でもどう見ても不細工なんだよ、顔が。人種とか関係なしに単に不細工なんだよ。”妖精”って言葉から、多くの人が連想する顔じゃないんだよ。重ねていうけど歌は超絶に上手いんだよ」

「多様性の時代だから、別にいいんだって、見た目は」

「でも不細工だよ。なんていうか、笑いで云う”出オチ”の使われ方だよ、あれ」

「もうそれ以上、云わないの。ただでさえセンシティブな話題なんだから。そんなことばかり云ってると、あなたの大切にしている五本指ソックスの薬指だけハサミでみんな切り取るよ。足の薬指、一本だけが風にさらされてきっとイライラするわよ」

「ごめんなさい」

「素直でよろしい」

「でもさあ」

「まだ云うか。まだ云うんだったら先に五本指ソックス出してきなさい。ハサミはここにあるから」

「いやいや、そうじゃなくて……」

「そうじゃないの」

「なんか変だなあ、と思わないかい」

「なにが」

「表現ってのは時代によって変わっていく、ってのは理解するんだよ、俺も」

「うん」

「思想的にも映像技術的にも、時代が変わるのと共に変化していくのは当然だと思うんだわ。それが進化とか進歩ってことだろうし」

「でしょ」

「でもさあ、最近のポリコレ云々っての、ちょっと時代の空気というか、時代の要請とは違う気がするんだよな」

「ふむふむ」

「一部の声の大きい人に配慮してるだけのような気がするんだよな。うるさいから従っておけ、みたいな。そんな印象を受けるんだよ」

「うーん」

「もちろん美人の定義なんて、人によって異なるから、俺が不細工と思った青い妖精の人を美しいと思う人がいるのもわかるよ」

「それはわかるんだ」

「君を美人だと感じるくらいだからね、俺は」

「なんでそこであたしをdisる」

「でもさ、この青い妖精の配役って明らかに意図があってやってることと思うんだよな」

「うーん」

「”作り手の私たちはこれだけ多様性に配慮していますよ”というアピールでしかないような気がするんだよな」

「そうなのかなあ」

「いわゆる悪目立ちをしてるんだよ、あの青い妖精だけ。映画の印象とは異なる印象を残すんだよ、あの役だけ」

「うーん」

「逆に失礼じゃないかって思っちゃうんだよな。たといばあの役を演じた歌の達者な役者さんに対しても、なんだか失礼なような気がするんだよな。ポリコレに配慮してますよアピール、に使われてるってのは。逆差別になっちゃうんじゃないかなあ」

「でもさあ、時代が変わるとっかかりの時って、そんな感じなのかもしれないよ。多少無理を感じても進めていっちゃうことで、いつしか多くの人々が妖精役を演じるのは必ずしも金髪で青い目の白人女性じゃなくていい、って認識が、当たり前のものとして出来上がっていくんじゃないかしら」

「長い目で見りゃあそうなんだろうけどなあ。でも無理に変える必要はないんじゃないかねぇ」

「そうねぇ。どっちがいいのかしらね」

「でもまあ、君の云うとおり、いずれはこれが当たり前になっていくんだろうけどな。ただ、ね」

「ただ、なに?」

「この流れの未来を考えたときに、過去の名作までが世の中になかったものとして消されてしまうんじゃないか……みたいな恐怖を覚えるわけだよ」

「あー、そこか」

「俺の好きな黄金時代のハリウッド映画、ビリー・ワイルダーとかプレストン・スタージェスとかヒッチコックとか、そういう監督たちが鎬を削った時代の映画たちが、現在のポリコレの感覚から判断された結果、否定を通り越して一網打尽に抹消されて殺戮されるんじゃないか、って恐怖を覚えるんだよ」

「そうねぇ。このままいけば、いずれ燃やすものがなくなって、過去に向かっていくかもしれないね」

「歴史修正とか平気でやりそうだろ、あの人たち」

「うん、それはそう思う。ある種の過激な人たちからは、自分の気に入らないものは根絶やしにしないと気が済まない、みたいな恐ろしげな感覚を感じるよね」

「”『お熱いのがお好き』でジャック・レモンとトニー・カーチスが女装をすることで笑いを取ろうとするのはけしからん! マリリン・モンローにあんなエロい感じで歌わせるのは性の対象としてしか見ていないからだ!”……とか云われたらたまんないよなあ」

「そうなるかもしれないね」

「ましてほら、SNS以前の掲示板が隆盛だった頃から、インターネット上でやたらと企業だとか公人を自分たちの意見で動かそうとすることに熱心な人たちっていたじゃんか」

「うん、いたいた。”これだけの問題を起こしたんだから公式に謝罪をするべきだ!”みたいにすぐ吹き上がる人ね。騒いでるの、あんたたちだけだよ、と思って見てたなあ」

「SNSの時代になって、その感覚がもうさ、病膏肓に入るみたいな感じになっちゃった感じがするでしょ」

「うん。するする。バーっと拡がった感じがするよね」

「なんか、恐ろしいんだよなあ、その感覚。万能感を得た一般市民って、なんか恐ろしいんだよな。権力を持つ才覚がない奴にそれを与えたらダメと思うんだよね。しかもあいつらは理屈や常識がわからないぶん数を頼ってくるし」

「うん、それはそうだね」

「どうしたらいいんだろうなあ」

「わかんない、あたしには」

「俺にもわかんないや」

「なんか疲れたね」

「疲れたな。とりあえず晩御飯どうしようか」

「ウーバーで取っちゃおう。なにがいい」

「パーコー麺」

「はーい。じゃああたしは海鮮炒飯にしよーっと。あなたの奢りでいい?」

「やだー」

「じゃあ五本指ソックスの薬指のところをハサミで切った上に晩御飯が届くまで正座の罰を与えるけどー」

「じゃあ奢るー」

「わーい。でもやっぱり五本指ソックスの薬指は切っておくねー。なぜならあたしが楽しいからー。わーいわーい。奢りだ奢りだわーいわーい」

2022/10/21(FRI)

「ひろゆきいるじゃんか」

「おまえ、元2ちゃんのVIPでもないのになに呼び捨てにしてンだよ。さんをつけろ、さんを」

「ひろゆきさんいるじゃんか」

「いるね」

「あの人すごいよね」

「どうすごいの」

「なんていうか、火付け役としてすごいよな、って」

「火付け役?」

「この話題をこう扱ったら炎上するな、ってわかって行動する感じあるじゃん」

「あー。そういうことな」

「この間も、基地の反対運動で揉めてる沖縄へ出向いて行って記念撮影とかして、ネットに火をつけてたじゃん」

「まあな。確かにあの一件からこっち、Twitterを中心に沖縄での座り込みのことが話題になってるもんな」

「だのにもうひろゆきさんはそこにはいないよね、いま」

「ああ、そうだな。もうその話題については表立った動きはしてないみたいだね」

「ひろゆきさん以外の人たちが集まって、わあわあ云い合ってるだけになってるでしょ」

「確かにそうだ。反ひろゆきさんみたいな人が現地に行って写真を撮ったりしてな」

「でももうそこにはひろゆきはいない」

「うん、確かに、いま基地問題の件でひろゆきさんの行動を云々する人はいないね。その通りだ。でもな、さんをつけろ、さんを」

「でさ、同じようなことが前にもあったの、憶えてないかな。10年くらい前」

「10年前? どんなことがあったっけ」

「日本ユニセフの資金の不透明ぶりについての話題、憶えてない?」

「ええ?……ああ! あったねぇ。『虚構新聞』が面白おかしくその話題を記事にしたら、日本ユニセフから抗議を受けて記事を削除したっていう、あれな」

「俺の記憶違いでなければ、あれも日本ユニセフとかアグネス・チャンについて初めに言及したのって、ひろゆきさんだったと思うんだよね」

「ああ……そうだったかもしれないな」

「でも最終的には日本ユニセフと虚構新聞が対立することになってな。そうして、その頃になったらもうひろゆきはそこにはいなかった」

「さん、つけろな。でも確かにそうだった気がする」

「ずるいよな」

「ずるいかどうかはわからんけど、例えるなら”話題になりそうな事柄”という池に目掛けて石を投げて、波紋を起こすようなことをするよな」

「でね、俺、そんなひろゆきさんを見るたびに、思うことがあるんだよ」

「どんなこと」

「人類の歴史には、数多くのひろゆき的な人がいたんじゃないか、って」

「ごめん。云ってることの意味が全然わからない」

「本能寺の変とかあるじゃん」

「明智光秀」

「それそれ。歴史に名を残しているのは明智光秀だけどさ、彼が信長をやっちまおうと決意するにあたって、火付けをした奴がいると思うんだよね」

「ほうほう」

「『比叡山を焼き討ちするとかおかしいと、おいらは思うわけです』とか云って、周辺の人を煽って、明智光秀をその気にさせたような人がいたと思うんだよね。それでいざ明智光秀が立とうとする頃にはどっか行っちゃって、もうそこにはいないの」

「うーん、いるかなあ、そんな人」

「絶対いたってそういう人。大化の改新の時とかにもいたと思うよ。『蘇我氏のやり方はダメですよ』とか云って中大兄皇子や藤原釜足をその気にさせたような人がいたって、絶対」

「藤原釜足は昔の役者な。沢村貞子の元の旦那。大化の改新のほうは鎌足な。って、いや、まあでも、もしも本当にそういうのが居たら、歴史に名を残しているんじゃないの」

「そこがほら、ひろゆき的なるものの上手さで、ことが起こる頃になったらもうそこにはいないんだよ。世の中に波紋だけを起こしてスッといなくなっちゃう。だから歴史に名前が残ることはないの」

「うーん」

「ていうか俺ね、ひょっとしたらひろゆきはタイムマシンを持ってるんじゃないかとすら思ってるよ」

「話が飛躍しすぎて全くわからない。そこまで話が飛躍するならもう、さんをつけなくてもいいや」

「あの人さ、地球上の歴史を行き来して、おんなじようなことをやってるんじゃないのかな。坂本龍馬が薩長同盟を結ぶにあたって奔走したり、ブルジョワジーがフランス革命を起こしたり、キリストが十字架にかけられたりとか、そういういろんなことの切っ掛けを作って作って回ってるんだと思う」

「……」

「そのくらいのことはしてると思うよね、絶対。いまのひろゆきを見ているととても普通の人間には思えない」

「あのさ、俺、帰っていい? 馬鹿馬鹿しくて聞いてられないから。つーか、まともに話を聞いて損した」

「……さてはお前もひろゆきに扇動されてるな。さては誰も座り込みしてない座り込みの写真とかを撮りに行ったりするつもりだな」

「扇動されてねぇし座り込みもしねぇよ。つか、お前みたいな気狂いはやっぱり、さんを付けろ」

2022/10/19(WED)

「新しいiPadでたねぇ」

「でも高いよね。無印のiPadでほぼ七万円からでしょ。買うにあたって躊躇しちゃうっていうか、考えるよね。やっぱりこの高いのも円安の影響なの?」

「そうみたいだよ」

「でもさ、むかしってもーっと円安だったんでしょ。1ドルが360円とか」

「それはまだまだ日本が三等国だった頃の話だから、比較にはなんないよ。でもそうだなあ、80年代の中頃までは1ドル240円とかだったね」

「だったらその頃って、海外の製品も高かったんでしょ。iPadとかも高かったんじゃないの?」

「いやいや、その頃はまだiPadは世の中になかったから。でも同じAppleのMac、当時はMacintoshって云ってたけど、確かに高かった」

「どのくらいしたの」

「具体的な金額は忘れたけど、当時、軽自動車が買えるくらいの値段、って聞いた記憶があるから、4,50万円とかじゃないかな」

「まじか」

「しかも35年以上前の4,50万円だし」

「まじか。いま軽自動車って新車だと100万とか130万とかするでしょ。まじか」

「あのころ『少年ジャンプ』が170円だったかなあ」

「まじか。いま290円だよ。まじか。『ドラゴンボール』とかが載ってて170円とかまじか。じゃあほんとに当時、1ドル240円な頃のMacはいまよりうんと高かったんだ」

「だから当時、海外製のパソコンを持ってる人って、ほんとの金持ちかほんとのマニアくらいしかいなかったんじゃないかな」

「じゃあさ、みんなどういうパソコン持ってたの」

「国産のだよ」

「国産?」

「NECとか富士通とかシャープとか。ほとんどのユーザーはこの3社のパソコンを使ってたね」

「ふーん。じゃあさ、またみんな国産のパソコンを使えばいいのにね。そうしたら円安でApple製品の値段が高くなっても、あんまり影響を受けないから大丈夫じゃない? さらに部品の調達も国内でやれば」

「うーん、ただなあ、当時と違ってもう国産のパソコンには競争力がないからなあ」

「ないの」

「ないよ。80年代のパソコンはまだ性能が低かったし、インターネットもなかったから国内だけを見てればよかったんだよね。だから独自の規格を推し進められた日本のパソコンが花盛りになったんだけど、Windowsとインターネットが出てきてからすっかり乗り遅れちゃったからね。OSの覇権をメリケンに握られてからはもうどうにもならなくなっちゃったよね」

「そうね。パソコンを買うときに国産だから……とか選択肢にないもんね。てかそもそも、パソコン自体、若い人たちは買わなくなってるし」

「スマホを買うときだって、国産かどうかなんて気にしないじゃん。どころかスマホやタブレットだとむしろ、国産だとダサいような、遅れてるような、そんな気分になるよね」

「たしかに。第一候補には上がらないかも。うーん、競争力、確かにないなあ」

「だからなんつーの、もう国産のパソコンとかの市場なんてないに等しいんだと思うよ」

「じゃあいまはもう円安の影響を受けて、価格が上がるに任せるしかないの?」

「そんな気がするよ。知らんけど」

「でた。根拠のない思い込みに尤もらしい理屈をつけてる人が、突っ込まれないように冗談ですよ〜、な雰囲気を出しつつ逃げを打つときに使う常套句、”知らんけど”」

「だってほんとに知らねぇもの、パソコンのことなんて」

「そうね。知らないよね。どうでもいいよね」

「どうでもいいよ。とりあえず今日の晩御飯の方がよほど大事だよ」

「昨日の大根の煮付けが残ってるから今晩のおかず、それでいい?」

「はーい。充分でーす」

2022/10/02(SUN)

立川談志家元が亡くなったのが2011年11月。80年代の終わり頃から家元を追いかけ続けていた自分が受けた喪失感はやはり相応のものがあった。それからしばらくの間はどの落語会に行っても家元の姿をふと思い出しながら聴く仕儀と相なった。

だがそうして喪失感の中で聴いた落語、それを演ずる落語家の中に談志家元が息づいている、そんな印象を受けることが多々あった。志の輔、志らく、談春、談笑、生志といった家元の直弟子たる各師匠が演ずる落語を聴いている中に、不図、談志家元の姿が垣間見える瞬間が多々あった。よくよく見てみるとこれは直弟子ばかりに限らず、家元の薫陶を大に受けたであろう柳家花緑師、当代の桂三木助師にも談志家元を感じる瞬間があった。

簡単に云えば、落語家として家元の遺伝子がそれら落語家たちに受け継がれたということなんだろう。

やはりこれは落語が伝統芸能だから起こることなのだろうと思う。百年をゆうに超える長い時間をかけて作られた伝統、長い時間をかけて伝承されてきた芸能だからなせる業なのだろうと思う。

だから、六代目三遊亭圓楽師のファンの皆さんもきっとその直弟子たち、伊集院光氏に至るまでのそうした落語家・演芸人の中に、その存在を不図感じることがあるはずだ。『笑点』のレギュラーメンバーというテレビタレントの印象とはまた少し異なる落語家としての姿、伝承され続けてきた、遠大なる歴史の流れの中に存在するいち落語家としての六代目三遊亭圓楽の姿を、其処彼処に見つけることになるんだろう。伝統芸能の凄みがここにもあるあるのではないか。

閑話休題

アントニオ猪木にはそれがない。すべては猪木一代限りでそれを伝承する人はいない。それは猪木個人の資質に加え、プロレス自体が伝統芸能ではなく、時代によってその姿を変え続けてきたショー・スポーツだからという側面もあろう。

アントニオ猪木にも直弟子と呼ぶべきレスラーは数多存在する。だかその中に猪木を見つけることはない。プロレスが伝承されるものではない以上、猪木以後のレスラーの中に猪木を見つけることは不可能なのだろうと思う。ジャイアント馬場であろうと、ジャンボ鶴田であろうと、長州力であろうと、前田日明であろうと、全てのレスラーは一代限りだ。興行上のトップの座を引き継ぐ者はあっても、遺伝子のように継承されるものなどない。

閑話休題

さらに云えばアントニオ猪木はプロレスの歴史とその流れから外れた存在である。時代がプロレスに求めていたものを破壊し、その要求を凌駕し続けた。日本のプロレスが世界のプロレス情勢とは無関係の、独自の進化を遂げたのはアントニオ猪木がいたからだ。プロレスが本来あるべき姿、そこから外れるどころかその常識を破壊し凌駕し、あるべき歴史を狂わせ続けた猪木の要素が、他のレスラーたちに見られるはずがない。

アントニオ猪木は一代限りだ。その試合を観られた幸運を胸に抱えてこれからも生きていくしかない。

閑話休題

自分はアントニオ猪木の全盛期には間に合っていない。自分がリアルタイムで目撃した猪木は体力が落ち、試合内容で観客を掌の上に乗せて操ることが難しくなり、アングルと呼ばれる仕掛け・状況設定の異常さや、将又、試合そのものをぶち壊すことで観客の感情を動かそうとしていた頃だ。だから自分は落日の闘魂しか知らない。

それでも猪木を見たことで、目撃したことでプロレスとはなにか、闘いとはなにか……つまりは目の前に提示されるものの本質を捕まえようとする了見が備わったと思っている。

閑話休題

平成の初め頃、自ら興した新日本プロレス、その第一線から身を退いた猪木。途端に新日本プロレスは猪木的なるものから離れようとし始めた。猪木的なるもの、それはともすればどちらに転ぶかわからないような、観客が怒り出して館内で暴動を働くような結果になりかねないものだ。新日本プロレスはまるで、もう猪木に振り回されるのはたくさんだ、自分達はまともなプロレスをやるようになるんだ、とても云わぬばかりに急速に離れ始めた。さらに時が過ぎ、世紀がかわり新日本プロレスが親会社の傘下となる頃になると、猪木はもはや象徴としてすら必要とされなくなった。

令和に変わる少しから起こった新日本プロレスの大人気は、猪木的なるものの排除が完遂された為に起こったものだと理解している。事実、いまの新日本プロレスに、アントニオ猪木が君臨していた頃の要素・匂いは一欠片もない。新日本ばかりではない、もうプロレスの中、レスラーの中にアントニオ猪木を見つけることはできない。これは取りも直さず、アントニオ猪木が狂わせた日本のプロレスの歴史が本来あるべき状態に戻ったとも云える。だがそれは、猪木が狂わせた日本のプロレスの姿、それが与えてくれた刺激をまともに受けた人々にとって、あまりに平穏で、平凡で、つまらない。

閑話休題

猪木が狂わせた日本のプロレス、その時代にぶち当たり、大切な記憶として持ち続けることができた幸運に感謝するしかない。

閑話休題

ではそんなことでまた。けれどもあれですよ、猪木が老境且つ、病身となってもなおその姿を見せ続けてくれたおかげで、なにかこっちも心の準備をすることができたからそこまでの大きなショックではなかったかな。でもまあ、そうは云ってもやっぱり堪える。うん、堪えてる。気持ちの整理がつかない部分はやっぱりある。だってアントニオ猪木がいなくなっちゃったんだから。ほんとにすべてが記憶になっちゃったんだから。アントニオ猪木はもういないんだから。いないんだよ、もう。

2022/09/30(FRI)

でもあれよなあ、外交をまずはしっかりやらないと我が国とていつウクライナみたいなことになるかわからんからなあ。国葬が結果的に国防に資するんであれば別にいいんじゃないのかねぇ。そう考えたら16億円ったって安いもんなんじゃないの。知らんけど、家計の感覚で国家の財政を見ちゃダメだと思うがねぇ。自然災害その他の救援と外交問題とはまた話が別でお金の種類もまた別だろうと思うんだけどねぇ。私たちの税金! って云いたい気持ちはわかるけど、あんまり近視眼にはならんほうがいいと思うねぇ。知らんけど。

閑話休題

Twitterから少し離れてみて分かったのは、離れると結構寂しいということね。時代から取り残されるような感覚を強く抱くということね。自分とは無関係に世の中というか周囲がどんどん進んでいってしまうのが可視化されちゃうのね。焦るねこれは。ただ同時に、Twitterとべったりで過ごしていたことでいかに自分が時間を細切れにしか使えなくなっていたか、も少しわかった。想像以上に持続的な集中力が奪われていたということもわかった。とにかくあれだ、世の中のことなんか知らなくてもいい、と云える勇気がいまの自分には必要だ。あくまでいまの自分には、だけどね。

閑話休題

『スプラ3』は続けるかどうかの瀬戸際に来ている。人様に迷惑をかけるとか以前に3D酔いを起こす頻度が高い。ジャイロで視点が変わってしまうのがどうにも辛い。目が追いついていかない。ジャイロの感度を最低にしてもまだ酔う。しかしジャイロを切ると全てが遅れてヒーローモードすらキツくなる。どうしたものか。

しかしあれだ、こうも簡単に3D酔いをしてしまうのでは来年5月の『ゼルダ』新作も遊べなくなってしまうのではないか、と恐怖して久しぶりに『BoW』を遊んでみたらこっちは平気だった。ジャイロで視点が変わらないからね。ただここで生来のおっちょこちょいが発動、冒頭から再開してうっかり手動セーブをしたものだから前のセーブデータが消えてしまった。厄災ガノンを倒して祠を全部解放してハートもがんばりゲージも最大になっておったのだけど。あーあ。もいっかいやろうかねぇ。

閑話休題

以前Twitterにも書いた、時折顔をあわせる反ワクチンの人と久しぶりに会話をしたらまたぞろ「日本人は右向け右だから」とか「海外だと陽性者が出ても放っておくのに日本は」とか云い出したので会話をするのが嫌になってつい黙りこくってしまった。そんなに我が国が嫌ならさっさと海の向こうでもどこでも行けばいいじゃん、あんた至極安全な我が国で平気に暮らしてるだけなのになんでそんなにそっくり返ってンの。と思ったが当然云わずにおいた。時折しか顔を合わせないしね。

閑話休題

私は皆さんに対して嘘をついてしまいました。「選択と集中」とか嘯いてネットフリックスを辞めたのに、その舌の根も乾かぬうちにApple TV+に加入してしまったのであります。まったく私は嘘つきだなあ、と自分で呆れるばかりなんでありますけれども、いやでもね、でもですね、ちょっと聞いてくださいよ奥さん! そこで配信されているドラマ『テッド・ラッソ』があんまりにも面白くてもう大変なんスよ。どう面白いか説明するのは自分は下手だし面倒だからしませんけれども、まあとにかく良質のコメディで本当に素晴らしい。ストーリー上でさんざ馬鹿にしたキャラクターにもちゃんと救いが用意されているのが素晴らしい。まあApple TV+だけにあまりご覧になる機会がないかもしれませんが、まあこれはマジ面白い。このドラマのためだけに600円/月を払っても惜しくないと思うよ。

閑話休題

アフリカの爆弾』『闘魂と王道 』『作家と家元 』などを読みました。たくさんのご本を読んでおりこうさんでした。

閑話休題

ではそんなことでまたねーん。あー、あとトップページの画像を作り直したよ。AIに書かせた絵と、期間限定ですごく安売りをしていた昭和書体のフォントを使ったんですよ。やっぱり高価なフォントって自分のような美的センスがほとんどない人間がいい加減に使っても、なんだかしっかりしたものに見えちゃうからすごいね。

2022/09/25(SUN)

特に理由はないがTwitterから少し離れる気分になった。特に理由はない。見るくらいはまあ見ている。けれどもなんらかのアクションを起こそうという気が急に失せてしまった。そんな気分になったことに本当に理由はない。が、ひょっとすると自分の体調が、自分の気づかない部分であんまり良くないのかもしれない。Twitterそのものは相変わらず人間の暗部が可視化されていて面白いのだが、なんとなくもうここは自分にとって居心地のよいところではなくなりつつあるなあ、という気分が強くなっている。訴訟とかが平気で聞こえてくるインターネットとはあまり付き合いたいとは思わない。20年付き合ったインターネットの未来がここなのかなあ……という気がしてしまっていけない。って、いやいや、こんなことを云ってまるで理由が他にあるようなことにしているが実際には単に自分がいじけているだけなのかもしれない。そんなわけだからまじで特に理由はない。漠たる不安、ただぼんやりとした不安、があるばかりなのでありんす。まあ、自分が時代に遅れてしまったのかもしれないね。そういうわけだからちょっとここに引きこもる。

閑話休題

『スプラトゥーン3』はなかなか思うに任せず困っている。まあそこまでくんくんにはまって遊んでいるわけではないから上達しないのも当然なんだけどね。『スプラ』はこの3から始めたから初心者もいいところ、ナワバリバトルではデデデ、と無防備のままに立ち上がったままで駆けていき、敵陣に突っ込んでは一回の戦闘で5回も打ち倒されたりして他の皆さんに迷惑をかけている。インクに潜ってイカになるということも満足にやらず突っ込んでいってしまう。まるで幼児だ。いまの俺はばぶみのない赤ん坊だ。やはりヒーローモードを最後までやるのが先決なのだろう。急がば回れ、はやはり真理なんだろうね。

閑話休題

”真理”と書くたびに真理アンヌのことを思い出し、そこから思念が二手に分かれて『ウルトラセブン』のアンヌ隊員と『霊感ヤマカン第六感』を同時に思い浮かべる。刷り込みというのは全く恐ろしい。すりみ連合と同じくらいに侮れない。

閑話休題

随分前にTwitterでも書いたが、ツイフェミの人たちをタイムマシンに乗せて昭和50年くらいに送り込んだらさぞ面白かろうと思う。新聞広告には『週刊平凡』『週刊プレイボーイ』のヌードグラビア(乳首に星マークがついていたっけね)を利した宣伝が氾濫、夜9時以降のテレビドラマその濡れ場には女性のおっぱいが割と平気で露わになり、街を歩けば其処彼処の電柱にポルノ映画の宣伝ポスターが貼られ、当の劇場前にはエロティックな看板(『絶倫海女 しまり貝』とかの)が堂々と掲示される。そんな昭和の御代にツイフェミの人たちを送り込んだらどんなことになるかと想像するだにワクワクする。しない? するでしょ? しない? しないの? するでしょう? しないの? そんなあ。

閑話休題

とりあえず一旦ネットフリックスを退会した。ネットフリックスに入ったのは随分古く、我が国でサーヴィスが開始されたその月に加入したような記憶がある。当時はもう蔦屋に行ってDVDを借りて返却して、なんてなことが面倒に思っていた頃だったから渡りに船だった。加入した初めの頃は作品数も少なく、オリジナルコンテンツも正直なところセコいものが多かった。それでも時代の趨勢はこちらにあると思って付き合い始めたらあーた、日に日に作品が充実していくじゃあーりませんか。『ROMA/ローマ』が配信されたあたりで質量共に完全に充実、もう時代は100パーこっちになったと思った。あれから幾星霜。Amazonプライムビデオやディズニープラスが始まっていく。基本的に新しもの好きな方であるからどんどん入った。金もないのにどんどん入った。まあHuluなんかには入ってないから、実際にはネットフリックス以外に入ったのはその二つだけなんだけどね。

しかしこうしてサブスクが当たり前になってみて驚いた。なにを観て良いのかわからなくなってしまった。残りの人生を全て費やしても観ることが叶わないだけの映像ソフト群が手に入ったことで、まるで夢のような状況が現出したと思ったのも束の間、実際には自分の手に余るほどの映像作品を手にしてしまい、その膨大なる作品数を前に自分の脳がオーバーフローを起こした。これはいけない。選択と集中をしないことにはなにも観られなくなる。そう思ってまずは手始めにネットフリックスを退会する、という仕儀に相成った。折りしも、くんくんになって観ていた『ベター・コール・ソウル』が完全終了したところでもあったし。とはいえまあまた『ストレンジャー・シングス』とかが始まったらまた入るかもしんないけど。

閑話休題

しかしそう考えるとYouTubeやTikTokなんかの無尽蔵ともいえる膨大な映像、その中を泳いでいこうとしたらショート動画が全盛になるのも宜なるかな、という気がする。どんどん観ないと不安が沸き起こるのかもしれないな、視覚と脳を切断したような感覚で浴びるように映像を観るようになるのも仕方がないのかな、という気がする。

閑話休題

これもだいぶ前にTwitterに書いたことだけど、モラハラが原因で離婚なさった女性のアカウントがたくさん流れてくることがあった。そのいくつかのアカウントに「子供ができたら旦那の態度が急変した」みたいなことが書いてあった。そのときふと思った。これ、その子供が成長した暁にそのツイートを目にしたらどんな感情を抱くんだろうかね、なんて。結構ショックじゃないのかな。そうでもないのかな。なんかドタバタな話とか作れないかな。

閑話休題

ではそんなことでまたねー。もうあれかしら、日本の良き秋を味わうことは二度とできないのかしらねぇ。グラデーションを描くように季節が変わっていく状況に身を置くことはできないのかねぇ。一昨年くらいから秋という季節は自律神経が最大に侵される時期になりつつあるんだよねぇ。嫌だねぇ。弱ったねぇ。秋が一番好きだったんだけどねぇ。うーん。

2022/09/18(SUN)

台風が近づいているせいか体調がすぐれない。体が怠い。10年前にはこんなことはなかった。すっかり自分は歳をとってしまった。

閑話休題

拙作『Over the Rainbow 〜十億アクセスの彼方に〜』の中で、主人公家族の父親、そのネッ友であるTOMOYOさんが死ぬというエピソードを入れた時のことを思い出す。

あの作品を作ったのは2004年、まだまだインターネットは電話回線で繋ぐものであり現在のように常時接続ではなかった。しかるに世間への浸透具合もいまとは比較にならないほどに低く、インターネットをやらない人、というのが世の中の半分以上はいたと思う。

だから当時インターネットをするのは基本的には新し物好きが多かった。新し物好きになるのは若者が多い。だから当時のインターネットには若者が多かった。自分の感覚だけでいえばその中心は二十代の前半であったように思う。

閑話休題

若者が集う場所だったから当時のインターネットはとかく明るかった。楽しい話題ばかりが渦巻いていた。終わらない夏休み。そこに、疲れや老いや病や死にまつわる話は、意図的にそれをする目的がない限り、目にすることはなかった。

これは上に挙げた拙作を作っているときから感じていたことだ。だから「いやいや、あと15年も経ったらみんな歳をとって病や死にまつわる話を普通にするようになる。それこそ、オフ会の話をするように、至極当たり前の生活の一側面として話すようになる」と思ってTOMOYOさんをあの世に送るというサブ展開を一つ入れ込んだ。

作品の公開から18年が経ち、インターネットには中年や初老の疲れ、老い、病、死にまつわる話でいっぱいになった。

閑話休題

で、斯く申す私自身がもうすっかり草臥れてしまっていけない。インターネットを始めた頃からは考えられぬほどに体にガタがきている。病院とは生涯がところ縁が切れない状況になった。とはいえ現代に生きているから周りの若者たちと一緒になって『スプラトゥーン3』の話題などに興じることもあるが、彼ら彼女らといえば夜の11時から夜中の3時頃まで遊んでいるなどと楽しそうに話す。しかし自分はもう夜も10時になる頃にはすっかり寝付いてしまう。そうして早く寝るから自然早く目が覚めてしまい、結果、若者たちがようやく寝たであろう明け方の4時半とかにもそもそ起き出して遊ぶ始末となる。ああ。自分はもうすっかり老いてしまった。ああ。

閑話休題

そこまで考えて不図思う。いまの若者たちにとってもうインターネットは新しいものではないよな、と。老いと疲れと病と死の話が其処彼処に出てくるような場所を新しい! と思わないよな、と思う。

たといば自分たちが若者というか子供だった頃のテレビ。大変に面白かったが新しいものとは思わなかった。生活の中に当たり前にあるものとして見ている感覚だ。あくまでそこは大人たちがかつて作った世界に過ぎない。すべては揃っているが、新しいものはなにもなかった。

だから、まったくの新奇なものとして世の中に現れたインターネットに熱狂したんだろうと思う。なにひとつ揃ってはいなかったが、ただただ新しかった。

閑話休題

自分にとってのインターネットはもう懐かしいものになってしまった。過去のものになった。当然、それは自分が老いたということに他ならない。だが同時にインターネットも老いた。インターネットが話題になるのは炎上騒ぎばかりになった。市民の声が顕在化するだけの、既存メディアにとって都合の良い存在でしかなくなった。誹謗中傷と訴訟の争いばかりになってしまった。動画投稿サイトは人生の一発逆転を狙って自分自身を売り物としようとする下品な連中に占められてしまった。新しいと見えるものも、少し目を細めてみれば、巨大になり過ぎて身動きのとれなくなったテレビが失った切り口で物事を見せているだけだ。もうここから新しいものなどなにも生まれない。ただただ当たり前のものとして存在していくばかりだ。西部開拓時代は終わり、金の鉱脈は掘り尽くされた。あとは普段の暮らしがあるばかりだ。

閑話休題

なんてねおほほ。いやはや、すっかり年寄りの愚痴になってしまったじゃないのさ。まあ若い奴らなんていくら状況が酷くたって勝手に面白味を見つけて遊んでいくだろうから、勝手にやればいいと思ってもいるけどね。いくらジジイと成り果てたとて、現実が間違ってる! とまでは思わないしね。まあ、時代を変えるインターネット、その生まれ出でる頃から本当に時代を変えてしまうまでの時期をつぶさに見られたという意味において、すごくいい時代に居合わせたよな、という気はしてるからまあいいや。いいよな。いいんだよそれで。これで充分でさぁね。

2022/09/05(MON)

まあそういうわけですっかり最近は作品作りへの意欲が減退してしまっていけません。これではあかん。投げたらあかん。とかつての近鉄バファローズの大エース、鈴木啓示みたいな口調で思うのだけれど所詮は楽な方に流されるままの人生だったから無理ということをしないのが習い性になっている。そういうわけだからこういう気分の時には無理に抗ったりせずに休んでしまおうと思っている。しかしながらなんだか色々調べていたらRPGツクールのunity版というのが出るそうだからJ-RPGをパロディにしたショートショートみたいなのを作りたいなとか思ってはいる。久しぶりにちゃんとしたシナリオを書いてみたい。インターネットはバカの巣窟になってしまったからつまらなくなった。だから面白い考えが浮かばない。訴訟とかがマジで頻繁に起こるインターネットは情けない。だからいまはインターネットについて考えるのが嫌になっている。まあ作品を作るにあたって金をもらってやっているわけではないし、どころかサーバー代とかむしろ持ち出しでやってるんだから責任あるわけでもないから適当にやるわ。ね。

閑話休題

そうして作品作りをサボっている自分は相も変わらずstablediffusionでAIに絵を描かせてばかりいる。結構面白いのはできているがなかなか思うに任せない。前回のWEB日記にも書いたがデジタルカメラを初めて手にして写真をバンバン撮っていた頃に近い感覚がある。撮影した写真の上手・下手はどうでもよくて、カメラを使っている自分がとても愉快だった。その感覚に非常に近いものがAI描画にはある。上手・下手よりも絵を描くという作業に手を染めている自分が愉快でならぬ。

閑話休題

盗んだバイクで走り出す15の夜
エイブラハムには7人の子
空飛ぶアレクサンダー大王
マペットになったスカーレットさん
16世紀に描かれたスティーブ・ジョブズ
世界の中心になった鍋屋横丁
18世紀のヨーロッパで開催された大相撲
あの人が断っていなかったら
8ビットPCで描いたスカーレットさん
リンカーンによく似た犬

閑話休題

ではそんなことでまたね。そのうちまた作品も作り出すでしょう。サボっている間、頑張ってインプットに努めますよ。体力が落ちているので摂取のペースは落ちてますがね。ほほほ。なんか愚痴と弱音ばかりだね。まあいいや。そんじゃあまたねーん。

2022/08/26(FRI)

さてもいま私はといえばまだAIに絵を描かせるのに夢中なのである。

Midjournyの方は無料でできる部分を早々に使い切ってしまったので、いまはStable diffusionを使ってクンクンに絵を描かせている。

Stable diffusionは手持ちのローカル環境ににインストールすれば無料で使い放題と聞いたから、早速チャレンジしてみたがなんだか難しく、大昔、中学生だった80年代半ばの頃に雑誌『ログイン』に掲載されていたゲームプログラムのマシン語リストを入力しようとして挫折、そのことを思い出して悲しくなったのでチャレンジを諦めた。

しかしながら捨てる神あれば拾う神あり、Google Colabを使ってそんなに難しくない感じで無料で使える方策がネットで示されているのを発見、これを実践してみたところうまくいったので、現在は主にそこで絵を描いてもらっている。Stable diffusionの本拠地であるDreameStudioの方も使ってるけど大半はGoogle Colabにインストールした方を使っている。

閑話休題

前回のWEB日記にも記したことだが自分には絵心がない。だからAIに描いてほしい絵の指示を与えるにしても全てが思いつきのワードを並べるだけだ。「未来の東京で巨大ロボと戦うスカーレット・ヨハンソン」とか「バッターボックスに立ってバットを構えるダビデ像」、「世界が終わる日に笑顔で寿司を食う若い日本人の女性」などといったほとんど大喜利のような、ジェスチャーゲーム或いはエスチャーゲームの問題のような命令ばかりを与えている。いずれも出来上がりの絵がまるで頭に浮かんでいない状態で言葉の面白さだけで命令を与えてしまう。だからきちんとした、観る人をほぉ、と唸らせるようなものは全くできない。それができるまでに命令するコマンドを工夫修正する、或いは描いた理想に近づけるべく何枚も作成させる、といった労力はまるで払わない。出来上がってきた絵を見てうはは。おもろ。このレベルの絵が自動で出来上がるのおもろ。と思って喜んでいるばかりである。

閑話休題

Twitterで見かけた深津貴之氏のツイートだったと記憶するが、AIで絵を描くことを多くの人がやり始めていることに対して「デジタルカメラによって誰でも写真を撮るようになったが、カメラマンが増えることはなかった」というものを目にした。なるほど確かにそうだ、AIを駆使することで絵を作る人は増えるだろうがそれによって絵描きが増えるかといえばまた問題が違うわなあ、ひいてはこれによってイラストレーターや人間の絵描きさんたちがそのまま世の中から追いやられる、ということにはならんだろうなあ。と思った。

閑話休題

思い返せば自分もそのような体験をしてきた。あれは1995年だったか、カシオが発売した「QV-10」なるデジタルカメラ。これを手にしたとき自分の生活が変わると思ったのを憶えている。それまで自分はカメラとは無縁の生活であった。小学生の頃にプロレスを観戦に行った際に親が持っていた昔でいう”バカチョンカメラ”を持って行き張り切って撮影をしたものの、ズームレンズすらないものだから現像された写真にはレスラーの姿が米粒大にしか写っておらず悲しい気分になった。以来、カメラが自分の生活の中に入ってくることはなかった。フィルムをカメラに装填するそのやり方すら知らないままに二十代になってしまっていた。しかしながらデジタルカメラを手にしてからというもの写真を撮る機会は飛躍的に増大、あれから25年以上が過ぎ、気づけばハードディスクには撮り溜めた写真が万単位の枚数で保存されている。だからといってカメラを、はたまた写真を突き詰めようとはついぞ思わなかった。だだらに写真を撮り、なんとなくいい感じの写真が撮れたら嬉しい。くらいの熱量だ。だがそれでも存分に楽しかった。生活に彩りがひとつ加わった。生活が変わった。その技術とは縁もゆかりもない人々の生活を変えてしまうこと、それが技術の発展が人類に齎す最大の効果と思う。

閑話休題

さらに考えれば、デジタルカメラよりも遡ること10年ほど、パソコンを手にしたことで容易に活字を扱えるようになった。これによって文章を書くことのハードルが大きく下がった。原稿用紙のマス目を万年筆や鉛筆で埋めるよりも、エディタやワープロ・ソフトにキーボードで文字を打ち込む方が遥かに楽だ。特に書き直し。そうしてこれによって自分の生活の中に文章を書く(それは日記のレベルであったけれども)ことが加わり、ひいてはインチキな作品を作る楽しみにまで到達するようになった。生活に変革が齎された。

閑話休題

AIに絵を描いてもらって出力する、これもまた同様に生活に変革をもたらすものと思う。いまは呪文を唱えるようにしてやっとこさ絵を描かせているが、AIが進化を果たした暁には文章の内容を自動で判断して適切な挿絵を描いてくれたり、ツイートの内容を理解してそれに即したイラストをさっと描いてくれたりするようになるだろう。プレゼン用の図版などすぐに描いてくれるようなるかもしれない。しかしそれはあくまで本職の、または真に絵を描くことを楽しみとされている皆さんが自分の手で描いたものとは本質的に異なるものと思う。本職のカメラマン、または真に写真が好きなみなさんが撮影した写真と、単に生活の一場面を写した撮って出しなInstagramの投稿とは、同じ写真であっても本質的にそれは異なるもの、というのと同じことだろうと思う。

閑話休題

嘗てスティーブ・ジョブズはMacintoshを開発するにあたり、コンピュータを知の自転車と定義したと聞く。人間は動物に比べて自らの足のみではその行動範囲は極めて狭い。しかしながら自転車を使うことでその範囲は俄然広がる。同様にコンピュータは知の範囲を俄然広げるものだ、と定義したと聞く。

閑話休題

まあなんだ、AIに絵を描いてもらうのはほんと面白いよ。それは嘗てパソコンやデジタルカメラ、或いはインターネットを手にしたときに感じた、これで生活が変わるだろうなという予感、それと同じものを感ずるね。というお話でござんした。

閑話休題

あーあとあれな、AIにどんどん働かせているときの自分、ふと「俺いま、ブラック企業の社長みたくなってるなあ。AI氏に休みなく無理難題を吹っかけ続けてるよなあ、賃金も払わずに」なんてちょっと思ったりなんかしたりしてこのぉー(CV:広川太一郎)。

2022/08/15(MON)

Midjournyの人気から、AIに絵を描かせるのが大流行りである。

自分も御多分に洩れず無料で扱える枚数だけ使って遊んだ。

しかしどうもこの、元来絵心がまったく不足している所為なのだろう、出来上がる絵がどうにもトンチンカンなものばかりになってしまう。他の方々がネットに上げているような思わず、ほお。と声をあげてしまうような上等なものにならない。

やはりこれは自分が絵を描くという行為をした経験に乏しく、それが為に、どんな絵を描きたいのかということがまるで頭に浮かんでおらないがためなのだろうと思う。頭の中にイメージが出来上がっていないまま、大喜利的にAIに命令を出すものだから相応の絵が出来上がらないのだろうと思う。

たといAIに肩代わりをさせるのだとしても、やはり絵の作成を所望する以上、AIに命令を与える人間に絵の素養がないと難しいのだろうと思う。

閑話休題

たといばほら、仕事を頼む際にも詳細が詰められておらず曖昧な指示だけを与えていたらうまくいかないでしょう。頼まれた側もなにをしたらいいのかわからなくて困っちゃうでしょう。でも大体の上司とかお客ってきちんとしたイメージが出来上がってない状態で仕事を振ってくるよな。

閑話休題

現状のみを切り取って云えばまだAIが人間の肩代わりをするのは難しいと思う。だけれどもこれは、いずれそうなることが明らかなものであるとも思う。現在あるAI技術が進化をすれば、やがては人間の肩代わりを完璧にやれるようになる。それはもう確実にやってくる未来なのだと思う。

その状況の到来が確実であるのならば、それはもう実現されているものだ、と思っていまからその技術に相対するのが技術との正しい向き合い方と思う。

閑話休題

まだMidjourny的なAIは、それに興味のない人々のところへは届いていないように見える。しかしこれが届いた途端に「AIの描いた絵には温かみがない」「人間の想像力には敵わない」「人間とAIとどっちが人々の心に訴えかける絵を描くのか競争させよう」的な意見が跋扈すると思う。そうしてAIを否定したり貶めようとしたり消費し切ってしまおうとする動きが出てくるように思う。だけどもそれによってAIの進歩が止まることはないと思う。コンピュータゲームもインターネットも黎明期にはそう云われたものだがけして消えることはなかったし、おそらくはそれ以前のテレビやラジオだって黎明期にはそのような扱いを受けていたはずだ。かの夏目漱石大人とて「新聞が毎日配達されるような情報化社会には恐ろしさを感じる」的なことを書いて残しているくらいなのだからね。それも明治の御代にですよ。

閑話休題

しかしその技術が真に人間社会に浸透するとこんだ、たといばネットにアップされた絵がAIが描いたものか人間が描いたものかの判別がつかなくなるんだろう。いやいや、それは絵の話に止まらなくなってくる。そのツイートが果たして人間が書いたものかAIか書いたものかわからなくなる。商品についての質問や返品についての相談を受けてくれるチャットや電話の相手が人間なのかAIなのかわからなくなる。テレフォン人生相談を願った相手、その相談の回答者が人間ではなくAI化された加藤諦三先生なのかもしれなくなってくる。もうそうなるとわけがわからない。

しかしそんな世の中になる頃には、人間であるかAIであるかというのは全く問題にされなくなってもいるだろう。『スターウォーズ』のドロイドたちのように人間と同じように取り扱われているんだろう。

閑話休題

ああ、でもそうなるとAIに対するいじめ問題、とかも出てくるかもなあ。

閑話休題

ではそんなことでまたねぇ。気温は平気で35℃になるけれども日一日と日の入りの時刻は早まるし緑の木々は夏枯れて紅葉の気配を漂わせているし吹き付ける風が強くなって夏の終わりを感じさせるしちゃんと季節は進んでいると思うと安心するね。終わらないことはないんだよな。うしし。

2022/07/29(FRI)

暑いねぇ。夏本番だねぇ。暑い時はエアコンの効いた部屋で昔のことなんかを思い出しながらゴロゴロ寝るに限るね。あの人いまごろどうしているだろう。離婚をしたと人伝てに聞いたけど。

閑話休題

この6月・7月と拙作『Over The Rainbow 〜十億アクセスの彼方に〜』がオカルト・恐怖系の事象を紹介する二つのYouTubeチャンネルで取り上げられたようなんですな。

"ようなんですな"とはっきりしない書き方をしたのは2回とも私へ直接の連絡がなかったがために取り上げられた事実を知らなかった。古くからの知り人の人のツイートを見てようやく知った、が為なんであります。

まあ別に作品作りを生業としているわけではないので、連絡もなしに作品が取り上げられたことに対して抗議の声を上げる、とかすることは考えていないのだけれども、そうは云ってもやっぱりちょっともやっとするんだよねぇ。

だってあの人たち、それで幾らかでもお金を稼いでるわけでしょう。動画に広告を入れたりスパチャをもらったりしてるわけでしょう。だのにそんな無責任なことでいいのかねぇ、と思ってしまうわけでありますよ。5ちゃんのオカルト板やTwitterに投稿するのとは訳が違うと思うのですよ。たといば作品をアップした2004年の11月、その直後に雑誌掲載された時には事前にその可否を先方から確認されたもんだったけどね。あれは『Yahoo!インターネットマガジン』だったかな。

閑話休題

取り上げた二つの動画チャンネルのうち古い知り人が紹介してくれた、7月に取り上げてくれたほう(ゆっくり解説のほう)はそれでもまあ動画の最後にこのサイトの紹介もしてもらっているからいいか、むしろ有難いな、くらいの印象なのだけれども、私が自分で見つけた、6月に紹介されていた方は完全なやりっぱなし。動画の仕舞いに「これは実はフィクションなんですよ」という説明があるばかりで、我がサイトへの言及も一切ないという為体。これはやっぱりモヤり度が増すよね。なんか変だよね。ついつい、お前ら人の褌で相撲取ってるだけなのに偉そうに能書き垂れてんじゃねぇよこの間抜けめいいかネットで無料で公開してるからってこちとら別に作品を道端に捨て置いてるわけじゃねぇぞなに勝手に持っていってんだよ路傍で販売している野菜や果物だって貰っていく人は10円とか100円とか入れていくもんだろうそれをなんだ無断でロハで持っていきやがってこの文化的コソ泥めが。くらいのことは思っちゃうよねぇ。もちろん口に出しては云わないけど。話がこじれて裁判とかになったら面倒だから別に抗議もしないし自ら進んで泣き寝入りするけど。

閑話休題

ああそうそう、ここをご覧になってくださっている善男善女の皆さんはそんなことをならさないと信じておりますが、上に書いたYouTubeチャンネルにこの日記とか我がサイトのことをコメントするなど、先方に伝えたりなさらないでくださいね。ダチョウ倶楽部的な意味じゃなくて本当になさらないでくださいね。もしもここで私がぐずぐず云っていることが向こうに知れて謝ってこられたり、或いは逆に喧嘩をふっかけられたりしたら面倒で嫌なので。つーか、一切のコンタクトを先方とはとりたくないので。本気と書いてマジでそう思っているのでね。

閑話休題

ついでだから少しこの作品のことを書いて自分のサイトに残しておこうか。やっぱり自分のいちばんの代表作はこの『Over The Rainbow 〜十億アクセスの彼方に〜』になるだろうし、これを超える成功はもうないだろうし。そんなわけでこの作品について思いつくことをアトランダムに。

閑話休題

あの作品、体裁こそブログのそれを模してるけど内容的には完全にひとつ前の時代、テキストサイトを模しているよね。テキストサイトはあくまで無名の個人の日記、それが主体のフォーマットだったね。対してブログは記事の掲載が主体のフォーマット、あの商品を使ってみたとか、芸能人の仕事日誌、みたいな感じのね。だからブロガーはちょっと売れるとすぐに商品の提灯記事を書いたりしてインフルエンサー! とか云い出してたじゃん。芸能人が”ブログの女王”とか呼ばれたりしてたじゃん。だから個人の生活の範囲内に話題が終始している『十億』の内容は本質的にブログじゃなくなテキストサイトなんだよな。

閑話休題

だから『十億』の母親、あれ、当時のテキストサイトをよく知るネットユーザーの人たちにとってはまず「うはは。母ちゃんポエマーか」つってパロディの笑いが起きてたはずなんだよね。あのポエティカルな表現それだけでそこはかとなく「あかん人」の空気を感じたはずなんだよね。当時ああいうポエミーなテキストサイト、日記って実際にすごく多かったから。そうして揃いも揃ってイタい感じだったから。

反対に能天気にすぎる父親のプログ、あれもある種のテキストサイトに共通してみられた根拠のない明るさ、人生に暗いところなど一つもない! みたいな過剰な陽気さのパロディになっているんだわさ。

ただ、もう2004年にはテキストサイトはほぼ死に体だったから、その形式を採用するわけにはいかなかった。反対にブログは隆盛を迎える直前だったからそっちにしたってこと。テキストサイトからブログへと取って代わられる過渡期だったから、ブログで個人日記というのもまだそこまで時代とズレてなかったしね。

閑話休題

あとほら、『十億』作中の母親の日記の中で、父親の浮気に端を発する離婚騒動を時系列にまとめて表にしているところがあるでしょう。あれもモデルがあったのよね。サイトのタイトルは忘れちゃったけど所謂”大手”のテキストサイト、書き手は女性だったけどその日記の中に、書き手の弟さんと両親との間に起きた揉め事、それを時系列に沿って、箇条書きで記載している箇所があったんですな。西暦2000年の中頃だったかなあ。それを見たときにものすごく面妖な気持ちになった。

「有名人でもなんでもない人の家庭の揉め事をなんで自分はいま読んでいるんだろう。つかこの人、なんでこんな家庭の恥みたいなことを満天下に晒しているんだろう」

閑話休題

てな塩梅で、とても不思議な気分になった。このときに感じた面妖な気分がこの作品の原点だ。だからあの、時系列で書き連ねる浮気騒動の部分はどうしても作中に入れたかった。つーか、このとき感じた面妖から導き出された考えは、その後も繰り返し自分の作品のテーマになってきた。『空華』での「インターネットは人間をコンテンツに変えた」というテーマ、『Someone to Watch Over Me』の「インターネットによって人生に観客という要素が加わった」というテーマに繋がった。だからこの三作品は同じところから生まれたもので、自分の中で強く結びついている。

先述した、モデルとしたテキストサイトの女性管理人も、テキストサイトを作ることで自分の人生をコンテンツ化し、自分の人生を見ている観客に披露するものとして家族の揉め事まで満天下に晒したわけだもの。ね、間違ってないでしょう。

閑話休題

で、あとこれは随分前にもどこかに書いたことだけど『十億』は元々笑わせようとして作った作品なんだよね。なにしろ当時は笑いを作ることしか考えていなかったからね。だから先述した母親の日記はポエマーを必要以上にカリカチュアライズしているし、同時に父親の明るさもカリカチュアライズしている。そうして生まれる夫婦の文体の落差、これも笑いを目指して敢えてそうしたものだ。実際に当時、それに気づいてくれた人も、数は少なかったものの確実にいた。

閑話休題

だから娘のブログがいじめられっ子のそれに激変したのも、その後に用意した最後のオチを最大限に効かせるためのもの。笑いとは逆方向に向かって目一杯に引っ張り、その直後にオチをパーンと決めることで、より笑いが多くなる、と思ったわけだ。強く引っ張った分だけ反動が大きくなると思って。

閑話休題

ところがオチが決まらない。グーッと引っ張ったぶんの反発を受け止められるだけのオチにならない。完全に強く引っ張り過ぎた。当時思いついていたオチは、ブログのコメント欄にみやかけおが登場して「大丈夫。みんなそこまで君のことを気にしていないから。面白がっているだけだから。君がブログを閉じればすぐにみんなすぐに次のターゲットを見つけて君のことは忘れるよ」とコメントを寄せるというものだった。皮肉としては成立する(作品を読んで娘に感情移入している人たちまでもを皮肉の対象にできるからね。「あんたたちだってこの作品を閉じたらこの娘のことなんかすぐに忘れて普段の生活に戻っちゃうでしょ?」 的な)と思うけどやはり笑いを起こすには至らない。考えオチ的にはなるだろうけど、笑いを起こすまでには到底届かないなあ、と思って困ってしまった。で、途中でもうどうでも良くなって(まさか公開から18年経ってもまだ取り上げられるようになるとは思わんしね)このまんま出しちゃえ、と思って出しちゃった。返す返すも、オチがちゃんと機能していたら作品の印象も変わって、夫婦間の落差なども笑いの一要素としてもっと多くの人に気づいてもらえたと思うんだけどな。

閑話休題

上で書いた如く、半ば投げ出すようにアップしたものだから、閲覧者からの反応など期待していなかったのだけれど豈図らんや、すぐに先述した雑誌の掲載可否の問い合わせがくるわ(ああそうそう、アクセス解析のスクリプトを変なところに記述しちゃったから人気が出てるって気づくまで時間がかかったんだよな。その掲載可否が寄せられて初めて閲覧数が多いってことに気づいた。公開から1ヶ月くらい気がつかなかったのかなあ。当時使っていたメールアドレスもうないから確認できないン)、方々のブログで言及されたり、仕舞いにはGoogleで「無題ドキュメント」ってワードで検索をすると『十億』がトップに表示されるくらい(いまは違うけどね。それでも5年くらいはその状態が続いたと思うよ。ああそうそう『十億』の導入&メニューのページはいまではすっかり失われた技術であるフレームを使って作ってあるんだけど、titleを書き込むフレームを間違えててねぇ。だから当時使っていたDreamweaver4が自動で「無題ドキュメント」を入れたからそれになっちゃったんだよな)大勢の人々に閲覧してもらった。

閑話休題

でもね、なんかこう、オカルトとかホラーの文脈で評価を受けるたびにいまでもなんとなく脳の片隅がむず痒いような気分になる。笑いにできなかったという忸怩たる思いが少し蘇ってきちゃう。贅沢な話なんだけども。

閑話休題

ああそうだこれも自分のサイトの中に書いておこう。『十億』のアイデア、その最初の具体的な萌芽は西暦2000年12月上旬のこと。テキストサイトの感想が書き込まれていた2ちゃんねるのテキストサイト板、そこに、テキストサイトの管理人同士の恋愛模様、オフパコの噂が書き込まれていたのを読んだとき。

「はて。ここに記載されているテキストサイトの管理人たち、別段、有名人でもなければ芸能人でもない。街を歩いていて、わあ! あのサイトの管理人だわさ! と人々が嬌声と共に振り返りサインや写真の撮影を求めるような存在でもない。云ってみれば縁もゆかりもない、ただの一般人だ。そんな見ず知らずの一般人たちの恋愛模様やオフパコの関係性を知ったところでどうなるというのだ。いや待てよ。しかしこれが進んでいくとどうなる。テキストサイトの管理人同士が恋愛を経て結婚に至る。やがて子をなしたとする。当然、この板でそれが話題になるだろう。この板を見ている人の数は少なく見積もっても千の単位に、どうかすれば万の単位になるやもしれん。ということは、だ。その生まれた子供は有名人でもなんでもない一般人が生んだ一般の子供でしかないのに、生まれながらにして数千から数万の人々にその存在を知られている、ということになりはしまいか。これはなんか変だぞ。これはなんか面白いぞ。これはなんか作れそうだぞ」

……なんてなことをそのとき不図思った。だからそのときは2ちゃんねるの表示形式を使ったパロディにしようと思ったのだがうまく果たせず、そのときは作るのをやめてしまった。それから4年が経ったのち、以前にも書いたサイトを一時休止しようとしたタイミング、なんか作っとこ、と思ったときにああ、あのとき捨て置いたアイデア、と思って作った、ということなんでありんす。

閑話休題

あとなんか書いておくべきことないかな。ああ、そうだ。娘の名前は最初は「かえで」だったんだけど、アップしようとした直前、小学生の女の子が誘拐・殺害される痛ましい事件が起きて、その被害に遭われたお子さんのお名前と同じだったから急遽「みずき」に変更した。

閑話休題

あとあれな、この作品、18年前のものだけあって取り上げられる媒体も時代に合わせて変化していて面白いな。初めは2ちゃんやブログやミクシィ、雑誌だったのがいつの間にかまとめサイトとTwitterになって、とうとうYouTubeになったよ。面白ぇな。

閑話休題

でもあれだ、もう自分はこのテーマで真面目な作品を作ることはないだろうと思う。このテーマをいかに笑いに繋げるか、を目指してやっていくと思う。たといば大昔に作った『嬰谷須磨子のいちばん長い日』みたいなドタバタ、馬鹿馬鹿しくてくだらない「内容はぜんぶ忘れちゃったけど笑ったのは憶えてる」って云われるような作品が作れたらいいと思っているヨ。笑いを作るのがいちばん難しいと思うからね。

閑話休題

まあそんなことです。しかしまあこの2年間くらいは『十億』が人々の口の端にのぼることも無くなっていて、ようやくこの作品の賞味期限も完全に過ぎたかな、と思っていたんだけど、先月にあった西原理恵子氏の娘さんのツイートをきっかけにまた人々の口の端にのぼって、うわあ、まだ賞味期限が残っていたか、と。まあ、なんていうんですかね、口幅ったいようなことを云うと、ひょっとしたらこの作品はインターネットの古典たり得るものなのかなあ、なんてちょっと思ってますよ。てへへ。てへへへ。うわあ恥ずかしいことを云っちゃったたたたよよよよよ僕僕僕僕ったららららら。古典たり得るものなのかなあ、だって。うわあ。うわあ。”〜なのかなあ”ってわざわざ自信がなさそうな文言を付け足してあるあたりが姑息でいやだねぇ。もう恥ずかしくて穴があったら体の半分だけでも入りたい。でも入るならその穴はなるたけ綺麗な方がいいな。なんてね。う、ふ、ふ、ふ、(EPO)。

2022/07/22(FRI)

大変な世の中ではありますが、いずれにしましてもみなさん暑さと新型コロナにはお気をつけてくださいよ。マジで。

閑話休題

しかしこの小説家で医師の知念実希人氏のTwitterアカウントを閲していると、氏がなにかを発言するたびにアンチなのかなんなのか、氏を揶揄する/否定する目的のリプライや引用ツイートが雪崩を打つように寄せられていて、なんというか、知念氏は大変だろうなあ、よく精神をやられることなく続けているよなあ、ちゃんと相手をしているし偉いよなあ、つーかいっそリプライ欄を閉じたらいいのに。と思ってしまうが、ひょっとすると氏がリプライを閉じないのは、作家として人間を見る場と思っているのかも知れんね。筒井康隆大人の文庫本に寄せられた解説文、誰が書いたのか忘れちゃったけどある解説文に「”自分が作家活動と並行して経営している会社が倒産しそうだ”と筒井氏に相談したら「”倒産の経緯を克明に記録しておくように。いずれ小説を書くのに役立つから”と云われこの人は改めてすごいと感心した」という一文があったのを記憶しているのでね。どの本だったかまじ忘れちゃったけど。てへぺろ。でもマジそんな感じで、地獄のようなリプライ欄を眺めながら、そこで人間を見てるってこともあるんじゃねぇかな。

閑話休題

ああ、そういえば電子書籍には文庫本にあった”解説”がキレイになくなっているね。まあ既発の文庫版を底本にしたものには解説があるものもあるけど、新しいものにはもうないね。かつて新潮文庫などは解説文から読み始めることもあったんだよな。まあ文庫本の解説文というものが、電子の世の中になっていくにつれて消えていく運命のものだったんだろうね。当然勿体無い気分はあるけれども、それが消えたことで出来た新たな空間に、なにか新しいものが生まれてくるかもしれない。そちらにより大きな期待をかけたいと思うのココロ。

閑話休題

しかしこの、新型コロナの感染率が猛烈な上昇を見せている中「2類を5類に」「マスクなんて意味がなかった」「ワクチンの効果なんてない」「3年も経って状況が改善できていない医療の怠惰」とか云って吹き上がっている人々が以前に増して目につくようになった。こういう人たちを見ていると、なるほど机上の空論ってこういうことだよなあ、と思う。人がバタバタ死ぬんだよ、重篤な後遺症が残る場合があるんだよ、ということが全く想像のうちにないように見えちゃうね。命は守るものだという人間らしい感覚が消失しているように感じて薄寒いような気分になる。人の死もグラフを構成するデータの一つとしか見ていないように感ぜられて薄気味悪い。3.11の際にビートたけし師が云った言葉だったと記憶しているけど「3万人が一度に死んだんじゃなくて、一人の死が3万件起きたんだ」という言葉が絶対に届かない・理解することがない人たちという気がする。志村けんも岡江久美子も千葉真一も新型コロナで死んでんだぜ。

閑話休題

でもあれだろうなあ、想像を15年先にまで進めたときに、いま新型コロナに感染をしてしまったワクチン未接種の子供たち、仮に15年後くらいにロングコビッドな症状が一斉に、該当する世代に一団として顕れてしまう、なんてことが実際に起こったとき(繰り返すけど"仮に"ですよ。これは私の全くの妄言ですよ。不安を煽る意図とかないですよ)、いま「2類を5類に」「ワクチンなんて意味がない」とか吹き上がっている人たち、その頃になったらこんだ「なせあのとき政府は対策を打たなかった」「経済を止めて子供を入院させなかった」とか文句を云うんだろうね。

閑話休題

Twitterにもちょっと書いたけど、ネット用語としての「ブーメラン」もう手垢がつき過ぎてつまらないね。いま使うのは恥ずかしいよ。別の言葉を探した方がいいだろうね。あとあれ、Twitterとかで「その言葉をそっくり発言者に返すことでツッコミとする」みたいなのあるじゃんか。「これをこうしたらいいのに」みたいなツイートに対して「あなたもこれをこうしたらいいですね」と相手の発言をそのまま引用して相手を否定する的な、いわゆる「おまゆう」を指摘する、みたいななやつ。あれもみっともないね。つーかSNSでツッコミをすること自体がもう恥ずかしいことかも知らんよな。自分が気の利いた人間であると思って悦に入っている、あるいは”マウントが取れる!”と舌なめずりしているように見えちゃうン。あと似たようなのでほら、たといば知念実希人氏の医療に関する真摯なツイートに「ほらこの人はフィクション作家だから」的な嘲笑・冷笑を浴びせていい気になっている感じの、あるでしょう。云ってやった! みたいな感じでリプライした当人が嬉しがってる感じの。ああいうのもほんとみっともないよね。

閑話休題

いまのネットを眺めていると、ちょっと気の利いた子はSNSには参加しないだろうなと思う。なにか別のところ、無分別に人が集まってこないところを見つけたり作ったりするんじゃないかという気がする。いま自分が中学生くらいだったらいまのインターネット特にSNSは「自分たちの入っていける場所じゃない」って思うだろうね。だってTwitterなんかいい歳をしたおっさんおばさんがあちこちで言い争いばかりしてんじゃん。玉石混交たるYouTube、TikTokはあまりに石の割合が多すぎるし。それにほら、我々は、それまでの人生の中でアウトプットができる場所・機会なんかなかったわけで、それを与えてくれたインターネットやSNSにのめり込んだ面もあったわけよな。生活に、アウトプットっていう新たな要素が突然出来上がった経験をしたことで、ここから離れられなくなってるわけだよね。でもさ、インターネットやSNSが生まれる前からあったようないまの中学生くらいの人たちにとっては、アウトプットができるなんてこと、当たり前にすぎて別段有り難がったり拘ったりするようなものではないと思うんだよね、きっと。空気のようなもんだと思うんだよね、きっと。だとしたら、のめり込んでまでやらないよ、こんな面倒くさいもの。面倒くさいSNSなるものが幅を利かせているインターネットなんて、やらないよ。ちょっと目立ったが最後、方々から批判を浴びる可能性があるところにわざわざ入って来るわけないもん。これからの若い子らはあれじゃないか、却って繋がる範囲を狭くしようとするんじゃないかな。繋がる相手を選別するようになるんじゃないかな。リアルの方が希少性が高くなってそっちに価値を置くようになっていくんじゃないかこれからは。それが時代に合った身の処し方ってことになっていくんじゃないか、ここしばらくの間は。

閑話休題

しかしほんと、昨今のTwitterで目立つのは失われたことを嘆くことばかりだよね。サブスクになって知らない映画との出会いが失われた、とか、電子書籍になって読み進める楽しさが失われた、とか、そんなのばっかりが目に付く。もっともっと、新しいなにかが生まれ出でてくることを楽しみにしていこうじゃないのさ。

閑話休題

ではそんなことでまたいつかまたいつの日か。今日の日はさようなら。明日もまた生きるぞ。

2022/07/13(WED)

なんていうかあれですよ、国政選挙前後のTwitterってほんと面白いよなあ。人間というかアカウントというか、普段に増してみんな自分で自分のレッテルを貼り付けてるように見えてマジ面白い。斯く云う自分もそうなんだろうけど。いやほんと百花繚乱で面白いねぇ。

閑話休題

あのなんかほら、ライフハック的な感じで”いい話・為になる話”をTwitterでする人たちがあるでしょう。「映画を見て号泣できる人は、自分の精神を自分で解放するのが上手な人。リフレッシュできる人なので最強」みたいなことを書く人たち。「大谷選手がされた教育方法が素晴らしいのでシェアします」みたいなことを書く人たち。あの人たちってあれな、必ずと云っていいほどツイートの最後に「一番伝えたい言葉はプロフに」とか「固定ツイートに」って書くのな。まあ普通に考えれば「何かの魂胆があってそうしているんだろう。たといば最終的に情報商材に誘導しようとしてるんじゃないか。そうでなければこんな回りくどいことしないだろう」とか思いそうなもんだと思うんだけど、そうしたツイートのリプライを見てみると「感激しました」「同感です」みたいなのがずらりとぶら下がっていて、ああ自分は間違っていた。随分昔にひろゆき氏が喝破した「嘘を嘘と見抜けない人にインターネットは難しい」と云う言葉、既に死んだものと思っていたが実はまだ生きていた……と思うなどしちゃうン。まあ、もしかしたらリプライをしてる人たちも一緒になってグルになってるって可能性、或いはリプライの人たちも全部一人がやってる可能性も有るっちゃあ有るけど。そこまでやってたら面白いけどね。

閑話休題

そうしてまた、上のトピックで書いた如き人たち、どういうわけか異様にフレンドリーだ。人間というものは普通に人生を送っている限り、清濁併せ呑む、といった了見にならざるを得ないものと思う。物事には表もあれば裏もある、それが人間であり人生、と認識するものと思うが、上のトピックで書いた如き人々はこういう了見を持ち合わせているようには全く見えない。投稿する内容から言葉遣いに至るまでひたすらに清らかだ。愚痴を云うこともなければなにかを強く批判することもない。いつも笑顔を絶やさぬように見える。はっきり云って気色が悪い。人間らしい感情のぶれが感じられない。水清ければ魚棲まず。こういう、一面的な人間性しか見せないような人たちを見たときに「嘘っ臭えな」と感じ取り距離を置くのが生きる知恵ということではないかと思う。新興宗教の勧誘も大概こんな感じで清らかな部分だけを見せてくるからやはりそういうものとは距離を置くべきと思う。

閑話休題

しかしこの人生のなにが大変かって、やはり判断と決定の連続であるということだと思う。どの職業を選択するのかこの人と結婚するのか子供を作るのかといった大きな事態、或いは、明日は何時に起きるか晩御飯はなににするかどのお洋服を着て出かけるかといった小さな事態に至るまで、全て判断と決定の連続だ。その積み重ねによって人生がかたち作られてゆくのだろうと思う。そんな人生そのものといえる重要&難儀な判断と決定を”教義”というもので肩代わりをしてくれるのだから、新興宗教に入るというのはやはり生きるのが楽になる面が大きいんだろう。この教義の通りに生活していたら間違いがないと思えるのだから楽なんだろう。ただ、その肩代わりを願ったが最後、果たしてその人生は自分の人生といえるのだろうか、人生そのものといえる判断と決定を放棄してもなお、それは自分の人生といえるのだろうか。という疑問が生まれてくる。まあそこまで宗教について考えたことがないから良くわかんないけどね。すすす。

閑話休題

Twitterでも云ったけど、あと20年も経って、令和生まれの諸君がいっぱしの若者になる頃になったら、その来るべき若者たちから「YouTuberの動画を見てるとバカになる」って云われるんだろうと思う。いまの若者たちがテレビを見てるとバカになる、と云っているようにね。歴史って繰り返すじゃんか。二宮金次郎の時代には「本を読むなんて非生産的なことをしている奴は馬鹿だ」と云われたというし、テレビが世の中に浸透すれば「一億総白痴化」と云われたというし、ファミコンで遊んでいたら「ゲーム脳になる」と云われたのだから、あながちハズレではないと思うがね。

閑話休題

どうもこの、YouTuberの動画って見てるといわゆる共感性羞恥みたいなのを感じて恥ずかしくなるんだよな。HIKAKIN氏のクラスであっても、そこはかとなく漂ってくる素人臭さに耐えられないような気分になる。基本的に技芸も知性も感じられないし……といったような自分の考え方は断然古いというのもわかってはいるんだけどね。出る側と見る側が同じ地平に立ってないと人気が出ないってのぁわかってるんだけどね。でも嫌なものは嫌なんだからどうにもしようがないよな。

閑話休題

先の参院選で政権与党が過半数を獲得する結果に終わったのを受けてだろう、こんなツイートを目にした。「私の高校生になる娘、”これで憲法が変わってしまう。基本的人権が剥奪される”と云うから”学校で教えられたの?”と訊ねたら”自分で調べた”と。大人たちよりよっぽど勉強していて偉い」と。いやね、ここで真に問題となるのは調べたという事実じゃなくて、どこでなにを調べたかが重要だと思うんだよな。物の本に当たって世界各国の憲法とその歴史まで調べるようなことをしたのか、それともその辺に転がっているYouTube動画を見ただけなのか。それが肝心なんだと思うんだよな。確かに両方とも「調べた」という言葉の字義に当てはまる行為だけれども、その内容はまるで違うじゃない。天と地ほどの差があるじゃない。銀座久兵衛とスシローぐらい違うじゃない。スシローは美味しいけれどもそれだけを知って寿司を語ることはできないじゃないの。どうもそのレベルで全てを知ったつもりになって全貌を語ろうとする人が増えたような気がする。自分の知識や考え方に疑問を持たない人が増えたような気がする。増えたというか可視化されたんだろうけど。要はアウトプットが過ぎるんだ。

閑話休題

ではそんなことでまたいつか。絶対まだ梅雨明けしてなかったよなあ。

2022/07/10(SUN)

安倍晋三元首相の訃報に接し、慎んで哀悼の意を表します。

閑話休題

今回は”閑話休題”のたびに話が変わりますよ。

閑話休題

ああ。結局一週間も更新を開けてしまった。一週間のご無沙汰でした©玉置宏。かつてくんくんになってWEB日記を書いていた頃の自分はといえばぎりぎりの20代。夜もずいぶん遅くまで起きていられたがそれもいまは昔。いまや21時を過ぎるともう眠くて仕方がなくなり、そのくせ朝は5時には目が覚めてしまう。思えばあの頃はネット活動のほとんどを深夜深更に執り行っていた。みやかけおになったあともそうだった。懐かしきテレホタイム。ロクヨンロクヨンイチニッパ。しかしもう無理だ。すべては体力の問題だ。人間のあらゆる問題はすべて体力の有無によってその結果が決定する。「やはり年長者の経験が問題解決には必要だ」などと宣う御仁はいつの世にもたくさんあるが、そんなものは体力がなくなった自分を正当化するための妄言だ。グーテンモーゲンだ。自分は男だから男の生理からのみ書くが、落ち着いた男なんてのも本来は存在しない。14歳の頃に獲得した欲望欲求を発揮・維持する体力がなくなっただけのことだ。体力がないから心身ともに動きがなくなって傍目には落ち着いていると映るだけだ。理性だ常識だ大人の振る舞いだ、とそんなものは老いたる自分から目を背ける言い訳ですべては体力の問題だ。腹いっぱい飯を食うのにもぐっすり眠るのにも体力がいる。大人の男とはバカな中学生が体力を失った成れの果てだ。

閑話休題

ツイッターにも少し書いたけどあれな、3.11以降、語ろうとする対象をカタカナに変換する人間や番組・記事を目にしたら取り敢えずは警戒心を持って触れることを心掛けるようになった。あの人ら、カタカナに変換することで物語にしてしまおうとする意識が伺えてならんのよね。そうした、物事や事態を現実から遊離させようとする感覚が、憎いと思う相手を自らの妄念で実態以上に巨大化させ、悪魔化させてしまうことに繋がるんだろうと思う。そうして手ずから悪魔をこしらえておいて「あいつは悪魔なんだからいくら攻撃しても構わない!」と思ってその通りに行動してしまうこと、実在の人間を蹂躙してしまうことに繋がるんだろう、と思う。いやほんとまじで平和に行こうぜ。もっとこう、平和な感じのカタカナ変換で行こうよ。たといば桂米助師がテレビなどのメディアに登場するときにはヨネスケに変貌する、みたいな、平和なカタカナ変換で行こうよほんとにさぁ。

閑話休題

しかしこの、今回の暗殺事件の第一報が齎された当座もツイッター上でいくつか見かけたのだけど「テレ東だけは平常運転」ネタ、未だにやる奴っているのな。相当にださいよなあ。あれがネットで流行り出したのってもう20年くらい前じゃないの。ツイッターが浸透して以降だったとしても、少なく見積もって10年以上が経ってる。いい加減飽きたら良いのにと思う。よくまあ手垢のついたネタを平気で擦れるもんだと逆に感心する。因に自分が初めて「テレ東だけは平常運転」の可笑しさに気付いたのは1986年11月、三原山が噴火した際に各局横並びで報道特別番組を放送している中、テレビ東京だけが『演歌の花道』だったか、五木ひろしがギターの奏法を他の歌手たちに向けて教授している放送を見たときだ。だから自分にとって「テレ東だけは平常運転」は36年前からあるネタということになる。まあこれは個人的に過ぎる極端なケースにしても、ほんといつまで擦りゃあ気が済むんだろう。斯様な形で自分が作り上げたものではないパターンを、皆がやっているから自分もやろうと遅ればせながらなぞる、それを恥ずかしげもなくやるというのは相当に格好の悪いものだと思うがナァ。

閑話休題

これもツイッターに少し書いたけど、一昨年くらいからかなあ、ツイッターのプロフィール欄に「相互フォローお願いします」「フォローバック必ずします」「無言フォローをしますすみません」みたいな言葉が記載されているのを目にすることが増えた。これさ、まじで昔の個人ホームページやテキストサイト全盛だった頃の「相互リンクお願いします」「無断リンクお断り」的なあれと同じじゃん、と思う。テキストサイトがブログに取って代わられた時点で相互リンクの文化はトラックバックにその座を譲りほぼ消滅、さらにSNSが発達して完全に世の中から消えた……と思ったら少し顔を変えてまたインターネットに現れた。結局、時代が変わっても本質的な部分(ネットで”アカウント”(”人”に非ず)が繋がろうとするときに産まれる感覚とでもいうかな)は変わらないということなんだろうな。まあ考えて見ればあれか、ツイッターなどのSNSって個人に焦点が当たるという側面に於いてはむしろブログよりもテキストサイトや個人ホームページのほうが近いのかも知れないな。ブログは記事が主役、SNSとテキストサイトまでの個人ホームページは人が主役、みたいな分け方が出来るかも知らん、と思ったけどいま思いついた考えだからたぶん違ってるだろうねぇ。まあいいやべつに違ってても。誰に迷惑をかけるものでもないし。あいつ間違ったこと云っててバカじゃね、と自分が思われるだけだからね。

閑話休題

ではそんなことでまたね。投票行って内職するんだ(駄洒落)。うわいまちょっと調べたらあの曲が世に出たの2001年だって。21年前じゃん。そらその間に天才的に可愛かったあの人も飲文字数。ピース。

2022/07/03(SUN)

新型コロナ発生・流行以後にインターネット・SNSを眺めていると、強く思うようになったことがあるんだけどあれな、情報の取得に慣れてない人、不得手な人っているんじゃないかね。

なんていうのかな、通り一遍に得られる情報、テレビを見ているだけで得られる程度の情報では飽き足らず、自分の足で自分が興味を持ったことの情報を探したり集めたりしたことがないんじゃないか、と思うような人が、インターネット・SNS上で多く目に付くようになった気がする。

閑話休題

たといばあるマンガを一冊読んだとする。あまりに面白いものだから、一冊読んだだけでは飽き足らずそのマンガの全巻を買い揃える。それだけでは飽き足らず、その漫画家が描いた他の作品を次々と買い漁り読み漁る。読むばかりでは飽き足らなくなってそのマンガや漫画家が影響を受けたとされる他のマンガ、小説、映画などについても調べ上げ、探し出し、読み漁り鑑賞しまくる。それだけでは飽き足らなくなって他の漫画家についても同様に面白いものを探し、そのルーツなどを探し出し調べる。更に飽き足らなくなってくる。ここで自分もマンガを描こうと志望する人はマンガを描くに当たって必要な事柄を次々に調べる。マンガの読み手として自分を深めていくことを志望する人は、更にマンガそのものの歴史や成り立ちの研究の領域にあるような資料を集めるなどする。あらゆるジャンルにおいて、なにかを好きになったときには、こうして自分で調べて情報を集めるという作業にたどり着くように思う。自分で探そうとしない限りたどり着かない情報にまで、一心にアクセスをし自分の中にインプットするものと思う。

閑話休題

不肖、私メも2003年にこのサイトを立ち上げる際、目指すところであった70年代後半から80年代にかけてのコントを中心としたテレビバラエティ、その楽しさの再現の為に手持ちの笑いの映像・音源を見聞きし直す、或いは小林信彦著『笑学百科』などの笑いについて書かれた書籍を読み返すなどした。しかしそればかりでは飽き足らず、横浜は関内にある放送ライブラリーに足繁く通い、当時はまだそこでしか観られなかった『ゲバゲバ90分』などテレビ草創期から黄金期にさしかかるあたりの笑いの番組を繰り返し観ることでインプットに努めた。

閑話休題

新型コロナ発生から蔓延以降、どうもこのような経験を一切したことがないのではないか、と思うような人がインターネット・SNS上で多く目に付くようになった気がする。

自分で一心に情報を集めるという行為をしたことが無く、テレビやラジオ新聞から得られる情報のみを摂取して生きてきた人たち。それ以上の情報が必要なかった人たち。こうした人たちがインターネット・SNSというツールを得て、本来自分にとって必要のない領域の情報にまでアクセスできるようになった。それも、自分で探すことなく、SNSのアカウントさえ持っていればどんどんとそうした情報が飛び込んでくる。置き網に魚が飛び込んでくるように情報が飛び込んでくる。取捨選択の余地も無いままに情報を浴びせかけられる。

閑話休題

通り一遍の情報だけで良かった人たちにとって、この状況は少し荷が勝ちすぎているのではないかと思う。情報慣れしていない人たちには情報の量が多すぎるのではないかと思う。情報を得るのは楽しい。知識が増えていくことは、知識欲が満たされ脳に快感を齎すことと思う。だが所詮は情報の取り扱いに慣れていない人たちだ。置き網に魚が飛び込んでくるのを待っていただけの人たちだ。その魚が大きいものであればあるほど、珍しい魚であればあるほど、やった! という快感は高まる。

閑話休題

こうした人たちを眺めていると、とかく「真実に目覚めた」「世の中に疑問を持った」「学びを始めた」などの文言を好んで使う。まるでなにかのテンプレートのように押し並べて使われている。そのことがずっと不思議であり目にするたびに心に引っかかった。つまりはこの人たち、自分から情報を取りに行ったことが無かったのではないか。勉強といえば学校で教わるもの、ニュースといえばテレビや新聞で知るもの。そのレベルでしか情報に接していなかったのではないか。そこへインターネット・SNSに参加することで、それまでとは比べ物にならないほどの大量の情報が飛び込んでくる。情報慣れしていないところへ大量の情報が飛び込んでくる。さらにちょっと検索をするだけで、自分が知らなかった情報にアクセスできる。自分で探したのだからその情報は出来るだけ特別なものであって欲しいと願うのが人情だ。元々探すつもりなどなかった情報だ。それが珍しいものであれば余計に嬉しい。知らなかったこれまでの自分が単なる無知だと人々から蔑まされずに済むような、知らないのも当然だと思えるような、隠された真実を見つけたい。

その念願を容易くかなえてくれるのが「陰謀論」であり「逆張りの意見」なんだろう。情報摂取におけるビギナーズラックを確実に齎してくれるものなんだろう。

だからああした人たちは「真実に目覚めた」のような文言を使いたがるのではないか。そんなことに思い至った。

閑話休題

ま、なんつーの、たといば若いうちに異性との接触が少ないとさ、歳を取ってから変な相手に云い寄られたときにそれに気付かなくなったりするでしょ。

女性に好意を持たれた! ってだけで舞い上がって最終的に騙されて金を取られたりとかするじゃん。そういうことが情報摂取においてもあるような気がするんだよね。

情報童貞の期間が長いと、いざ情報に触れたときに舞い上がって頓珍漢な情報についていっちゃうんじゃないか。そんな気がするよ、というお話でござんした。

閑話休題

んじゃあまあそんなことでまたね。暑いんで気をつけましょうお互いに。しかしこう、宮司愛海アナウンサーとかに云い寄られるような人生を送ってみたかったものだねぇ。

2022/07/01(FRI)

”コンテンツの有用性が低い”

ほったらかしにしていた為に停止されてしまったGoogleアドセンス、その再審査が却下されたときに受けたGoogleからの我がサイトに対する評価の文言である。去年の秋口のことであった。

爾来、冬、春と二つの季節を雌伏して過ごしその間、サイト全体の改修を果たしこれを機に再々審査を申請したところアドセンスの使用許可が復活。お陰様を以て広告が表示されるようになった。解らないながらもレスポンシブ対応を頑張ったりした甲斐があったというものでござる。

まあ閲覧いただく皆様にとっては関係のない事柄ではありますけれども、どうかひとつ、どーかひとつ、我がサイトがまた少し前進したということをご理解いただけたら幸いかと存じますものでございますのことでありんす。

とはいえ此処はインターネットの僻地ですから広告が入ったところで小遣い銭にもなりゃしない程度の収益しかないのですがね。まじで月に500円あったら白目を剥いて卒倒するレヴェルなんですよ奥さん! お金くださいよ右や左の旦那様!

閑話休題

さて自分といえば紛う事無きむくつけきおっさんであるのですが、それ故、やはり女性という存在が好きなのであります。街を歩いていて奇麗だと思う女性を見かけた際などはつい、そちらへと目が行ってしまうのであります。そうしてこう、なんかぽわーんといい気分になったりするのであります。

これをして性的搾取をしていると指摘されるのであれば、甘んじて受けるものでありますけれども、女性を愛する男性の立場から申し上げますれば、これ自体は男性の本能と直結している部分と思いますので、これを否定されるのはなかなかに辛いものでございます。自分でも意識をする前に目が、勝手にその奇麗な女性を追ってしまうのであります。猫が目の前にある花瓶などを前脚で自動に倒してしまうのと同じなのであります。これを止めるのはほぼ無理と思うのであります。だって本能だから。

と、そんな男性の私が思いまするに、性的搾取などの問題において真によろしくないのは、男の側の一方的な欲望を理性で押し止めることが出来ないことであろうと愚考いたすのであります。いい女がいた。それ捕まえて裸に剥いてやっちまえ。いい女がいる。後をつけてつきまといその住まいを見つけてやれ。いい女だ。よしネットで検索してSNSのアカウントを見つけてDM送って仲良くなっちゃおう。いい女を見つけた。写真にとって世界美女図鑑とかいって自分の公式サイトに乗せてやろう。みたいな、欲望をすぐさま行動化する愚かな行為、これを理性で抑え込み、けして行動化することなく脳内で思念する段階に押し止めておく、その技量の獲得こそが、性的搾取などの性被害を防ぐ為に目指すべきところと思うのであります。

しかしながら当節というものは、男性の多くが自然天然に持っている女性に対する大脳旧皮質的な欲望、この存在そのものを怪しからんと断じ、これを殲滅しようとしているように見えるのであります。なぜならある種の女性たちがすごく嫌がるから。それに与する男達が結構いるから。自分たちが気にくわないものは人間社会にとって必要がないものだと思っているから。人間社会にとって必要がないものは消えてなくなってもいいと思っているから。と、思っているようにしか見えないのであります。

しかしそうした大脳旧皮質的な、本能的な行動を殲滅しようとするということは、やがては男性そのものの存在を殲滅しようとすることにつながると思うわけであります。男性を男性たらしめる要素を潰してしまえ、ということになるように思うわけであります。これはやっぱり行き過ぎと思うのであります。SNSが一般的になってからこうした考え方がかなり広範囲に敷衍したように感ずるのであります。自分の気にくわないものは殲滅させてしまえばいい。なぜならその方が自分の気分が良くなるから。その実現の為に法を変える・新たに作ることが手っ取り早いのであれば政治家に働き掛けて作ってしまえ。Twitterを始めとするSNSがあればデモ行進よりも集まりやすく連帯が取りやすい。だったらこれを利用してしまおう。おー。ちょっと過激に発信したら簡単に同好の士が集まった。ちょっと勢力になり始めている。わたしたちに否定された男たちが発狂している。わはは。これはたのしい。家に居ながらにして自分の気にくわないものが世の中から消えていく。性的搾取をする怪しからん男どもが消えていく。男どもが下卑た感じで愉しんでいる異様に膨らんだおっぱいをぶるんぶるんさせているマンガ・アニメのキャラクター、おほほ、みんなでちょっと文句を云ったら謝罪文と共にすぐに消えた。わはは。わははははは。これはやめられない。公的機関の宣伝に超絶ミニスカートで股座の部分に性的要素を強調するような線が書き込まれているアニメキャラとかまじきもい。きもいから騒いで消してやれ。ほほ。ほほほ。消えた消えたまた消えた。こうしてわたしの嫌いなものが消えていくたびに、わたしの気分がどんどん良くなっていく。気分がアガっていく。こうなりゃみんな消してしまえ。作中で女性をひどい目に遭わせる・性的な行為をさせるなど、女性の存在と権利を侵害する創作物はひとつとして許さない。アダルトビデオなどもってのほかだ。新しい法律を作って潰してしまえ。いやいや、いっそのことわたしの気分を悪くするものが生まれる可能性が強くある創作物、そのすべてをひと括りにして制限をかけてやれ。どうですここまで人が集まり一大勢力になったら政治家とて無視を決め込むことは出来ないだろう。私たちの望む方向へと政治が動く。政治が動けばマスコミも動く。既成事実が積み上がる。ぬひひ。もう男も女も関係あるものか。わたしの気分を害するものを産み出しそうなものは、可能性の段階から潰しておくに如くはない。おほほ。おほほほほほ。どうです。わたしの気に入らないものがわたしの目の前からどんどん消えていく。うほほ。これはやめられない。わはは。わははははははははは。どんどん気分が良くなっていく。わはははははははははははははは。わたしはいま人間社会を改革しているのだ。わははははははは。どんどん世界がわたしにとって都合が良くなってゆく。わは。わはははは。わたしは正義を遂行しているだ。わははははははははははははははははははははははははははは。わたしいまとってもたのしい! ……というような了見の人たちから、出来たらぼくはインターネットを取り上げてやりたいと思う今日この頃のラッコの毛。

閑話休題

ほんとにそうよ。この未来を迎える為にインターネットの黎明期から付き合ってきたわけじゃないんだよ。この未来を迎える為に80年代の半ばからパソコンを愛好してきたわけじゃないんだよほんとにもう。ぷんぷん(CV:さとう珠緒)。

閑話休題

いま末尾にシャレで(CV:さとう珠緒)って書いたけどいま以上にインターネットが世知辛くなったらこういうふとした一文にも著作権とか肖像権の侵害だ、なんていちゃもんつけられるようになるのかねぇ。インターネットのすべてがディズニー的になる世界。こわいよぅ。

閑話休題

んじゃあまあそんなことでまた。それではみなさん、ごきげんよう(CV:秋山ちえ子)。

2022/06/27(MON)

あれはいまから十年くらい前かなあ。Twitterだったかtumblrだったかこんなフレーズを見たのを憶えている。

「インターネットはとにかくアウトプットをすべし。その取捨選択は見た人がやればいい」

閑話休題

このフレーズを見たときになるほどなあ。至言、というほどではないけれども凄い見方だなと思ったものだった。

ただもうこのフレーズも現代では通用しないなあ、と思う。

Twitterなどを眺めているとインプットとアウトプットのバランスが崩れている人が多くなった。

それまでろくすっぽインプットをしてこなかったのに、TwitterなどのSNSを獲得してしまったが為にアウトプットの楽しさ、お手軽に得られる承認欲求の快感に従うしかなくなり、結果「目覚めた」などと云い始めて頓珍漢なことを云い募るような人々、こういう人々に共通して見られるのはやはりインプットの不足。インプットとアウトプットのバランスが著しく悪い。常にインプット<アウトプットの状態になっている。しかも自分がそうなっていることに自分で気付いていない。自分の状況に気付いていないくらいだから、他者のことなど余計に見えない。そうしてなんにも見えないから他者がいかに手間暇をかけて正しく学ぶことでインプットをしてきたかに想像が至らない。自分のことも他人のこともわからないから自他の違いがわからない。自他の違いがわからないから自分もあの人も同じようにTwitterでつぶやいている、という表面的な、行動のパタンしか認識が出来なず私もあの人も同じでしょ、と平気で他人に絡んでいく。絡んでいって自分が持っているきわめて少ないインプットから導き出された貧困な考えを、インプットが豊富で正しい知識から導き出されるアウトプットが為に評価をされている人に押し付けあなたは「目覚めて」いない、などと云い放つ。しかしその「目覚めた」考えはやはり貧困なインプットから導き出されたものだから相手から一刀のもとに斬り捨てられる。その様子を見た周りの人々からバカ扱いをされる。すると、どうしてあの人は称賛されるのに自分はバカ扱いをされるのかなんでだよふざけんなよ! なんつって恥ずかしさと悔しさ紛れにますます自分の貧困な考えを強化しようとする。

この時代だからネット検索をすれば自分と同じレベルの貧困な考えの人たちの存在が割合にすぐに見つかる。ほら見ろやっぱり私の考えは正しいじゃないか、私と同じように目覚めている市民はたくさんいるのだ、と阿呆な考えを強化していく。先ほど申し上げた通り自分を省みる能力がないからいきおい、自分の意見に反論する人々をすべて間違っていると認識してバカ扱いをしたり「アンチ」「信者」扱いをして聞き入れない。養老孟司先生著すところの名著『バカの壁』そのままの状況が出来上がる。こうなるともう行き止まり。斯くして「目覚めている市民」の一丁上がり。

インプットよりアウトプットが勝っている人の悲劇。アウトプットから思考が始まる人の滑稽。アウトプットをする為に行うインプットだからより刺激的な、正確性よりも人目を引きやすい知識を簡単に拾い上げて簡単に取り込んでお手軽にアウトプットしてしまう。インプットから始まりアウトプットに至るという大原則、その順序に則っていない。そうしてはじめの一歩が間違っているから進んでいくうちにとんでもない地平にたどり着いてしまう。たどり着いた頓珍漢な場所にも当節のネットは結構な数の人がいるから、そこが頓珍漢な場所だということに気付かない。残念な話だ。だからいまの時代に必要なのはインプットだ。まずは黙れ。口を噤むところから始めろ。ってな。

閑話休題

うそをうそと見抜けない人はインターネットに向かない。というひろゆき氏の至言もやはり当時の至言であってインターネットが世の中と陸続きになってしまった現代にはもう通用しないだろうなあ。インターネットと世の中は別物、という状況が前提の言葉だからなあ。

閑話休題

Twitterにもちらと書いたけどほんと世の中って芥川龍之介大人が著したところの『薮の中』だと思うねぇ。Twitterを眺めているとまじ、みんなひとつの事実に対して勝手な受け取り方をして勝手なアウトプットをしてるもんなあ。事実ってなんなんだほんと。

て、ここまで書いて思い出したけどいまから十年くらい前に『マニファクチュア真実』て作品でそのテーマを扱ってた。もっと分かりやすくして作り直すかなあ。

閑話休題

こないだ公開した『Someone to Watch Over Me』のテーマである”人生が人に見せるものになった、人生にそれを外から見るだけの観客の存在が出来た”ってのは自分で云うのもなんだけど、凄い発見だと思うんだがなあ。まあわかるひとにはわかるだろうからそれでいいや。ぬくく。

閑話休題

全日本マウントポジション選手権。というのを思いついている。

閑話休題

ほんとTwitterってあちこちでケンカしてて面白いな。しかもその殆どがケンカする必要がないケンカだものなあ。お互いの考えが違う、その違いが受け入れられない、一言あいつに云ってやりたい、それを云ってやって自分の考えの正当性を担保したい。っていうだけのいちゃもんが発端、みたいなのばっかりだもんなあ。面白いよなあ。ほんと面白いよなあ人間って。まじすごく愚かで面白いよなあ。

閑話休題

じゃあそんなことでまたいつか。まずは俺がアウトプットやめて黙るか。いやいやここは俺ん家だから黙らなくてもいいでしょべつに。

2022/06/25(SAT)

アイデア帖

閑話休題

人間動物園。

デジタル多羅尾伴内七つの顔を持つ男。

人が出会うことの不思議。

引用ツイート双六大会。

義を見てせざるは勇なきなり〜傷ついたの誰の心〜。

スマートグラス元年。

お嬢さんをください。

閑話休題

サイト活動が終わるまでにどれだけつくれるかしらねぇ。別に活動の終わりの時期を決めてるわけじゃないけど。

閑話休題

Twitterのインプレッションってあるけど、あれよくわかんねンだよなあ。

あれほら、アクセス解析みたいなのついてんじゃん。そのツイートが見られた数、みたいなの。あれさ、自分の作品を報知紹介するとかのときにかぎって24とかそんくらいの数字にしかなんないのな。

その数字が上がるときってあれな、基本的にはTwitterの話題に入っているキーワードを入れたようなときなのな。それに気付くというか思うたんびに、これは誰かの意思によって集められてるんだな、話題のところへ集合させられてんだな。そうなることによって誰かが儲かってるんだろうな、と思っちゃう。

もちろん別に儲けることは悪いことじゃないんだけど、なんつーかな、なんかこれ知らないうちにどこかに誘導されてみんなまとめて海に沈められたりするんじゃないか、とか思っちゃう。レミングの行進とかピクミンみたいになってんじゃないかね。

……なんてなことを真剣に言い募ると陰謀論の人と変わりがなくなるからあんまり云ったり思ったりしないようにしてるけどネ。

閑話休題

前回の日記にFLASHムーブメントがいまのYouTuber跋扈の下敷きになっている。みたいなことを書いたけど、正確に云うともうその時代も終わってンのな。いまのYouTuberの作る内容って基本的にはテレビバラエティを細分化させたものでつまりはテレビの再生産。だからまあFLASHの頃と似ているのは表舞台に出てくるその道程だけで内容的にはやっぱり違うんだろうと思う。

何年か前に「YouTuberのゴールがテレビに出て芸能人になる、ってことにはなってほしくない。テレビの再生産にはなって欲しくない」みたいなツイートをしたけど、見事にそうなっちゃった。まあもうちょっと分解すると、ツイートのときに危惧していた芸能人の枠組みに入るというのじゃなくて、芸能人に取って代わる存在になった、て感じだけど。でももうそれはインターネットの面白さじゃないんだよな。インターネットでなければ見られないなにかじゃないんだよな。微妙な違いなんだけど、やっぱりいまのYouTuberは基本的にはテレビバラエティの再生産にしか自分には見えんのだよなあ。

まあでもあれだ、世間に侵食されるってこういうことよ。天岩戸が開かれるってこういうことよ。世間と呼吸するってこういうことよな。

閑話休題

マンネリを恐れぬ自分で行こうじゃないか。

閑話休題

じゃそんなことでまた。

2022/06/24(FRI)

そういえばFLASHのサポートが完全終了したのはいまから一年半くらい前のことだっただろうかね。

あのとき、多くの皆さんがFLASHに対する思いを綴っておられるのを見たっけね。

天下の楽しみに後れて楽しむ。なんてな言葉もあるくらいだからいまになって自分とFLASHとの関わりについて書いてみようかね。

閑話休題

FLASHの前に『Macromedia Director7 Lite』ってのを使ったんだよな。2000年の暮れだったかな。当時はまだこのサイトを始める前で、別名義でサイト活動をしていた頃。そのサイトは当初日記をメインコンテンツに据えていたんだけど、いまも載せている『ネットアイドルよし子さん』などフィクションな作品を作り始めたらそっちが面白くなっちゃって。また当時はサイトをやる目的や動機が人を笑わせること、自分が子供の頃にテレビでさんざ観たコントの面白さ、あの空間を現出させることだったから、なんかこう、紙芝居でもいいから動画的なものを作ることでコントをやれないかとずっと考えていたのな。その為になにか必要なツールを、と思ったときに思いついたのが『Director』だったんだね。

『Director』ってのは90年代、CD-ROMを媒体としたマルチメディアタイトルを作る為のオーサリングソフトが始まりで、当時は時代に合わせてWEBアニメのフォーマットであるShockwave形式を書き出す機能が追加されていた。自分が手に入れた『〜Lite』てのは『Director』の機能限定版で販売価格も個人で十分手の届くものだった。

で、そいつを使っていくつかおふざけ程度のものを作ってみたんだけどもどうもしっくり来ない。しかもネットを瞥見してみると個人でShockwave形式のアニメを作っている人は少ない様子。やっぱりこのソフトはオーサリングの為のもので、動画を作る為のものじゃなかったんだろう。

うーん、ってんでよく調べてみたらどうやらswf形式のファイル、つまりはFLASHなるソフトで作られたものがずいぶんと幅を利かせているとわかった。このときが自分とFLASHの最初の出会いだ。

善は急げというので早速FLASHを手に入れた。Mac版でバージョンは4だったかな。5だったかな。ActionScriptが搭載されてたと思うから5かな。はっきり憶えてないや。2001年の初頭の話。

閑話休題

別名義のサイトを開設した1999年の頃からずっと、相田みつを氏のパロディをやりたいと思っていた。

しかし当時でもみつを氏の言葉を下品なものに変えただけのパロディはたくさんあった。そんな手垢のつきまくったものを後追いでやっても面白くないよなあ、と思ってなかなか作り出すことが出来ずにいた。

そんな中、あれは2001年の5月だったか、当時飼っていた柴犬のコロちゃんを散歩に連れて行ったときのこと。

いつも通る散歩コース、いつもの角を曲がったところで突然言葉が降りてきた。

”音楽に乗せればいい”

その刹那、声こそ上げなかったが電撃に打たれたように全身がびくっとなった。足下にいたコロちゃんがその様子に気付いて立ち止まって振り仰ぎ「どした?」とでも云いたげな顔でこちらを見つめてきたのを憶えている。

散歩から帰るやFLASHを使って試しに作ってみる。おほほ。手応えあり。

相田みつを氏のパロディは数多あるだろうが、音楽に乗せて下品な書画を連打する馬鹿馬鹿しさをもったものはないだろう。パロディとしての独自性も十分獲得できている。なんつって作り始めた。もちろん、使うツールはFLASHだ。勢い余って絵も描けないのに安物とは云えペンタブまで買った。

しかし当時のFLASHのMac版は音声を取り扱うのが苦手だったようで、何度もソフトがクラッシュ、MacOSまでクラッシュして爆弾マークにお目にかかる羽目になったけど。

まあいずれにせよ、自分とFLASHの関わり合いはここから本格的に始まることになる。

いよいよ作品作りが面白くなってきたこともあって、うーん、これはサイトをリニューアルして作品中心の内容にしたほうがいいや。ブログが台頭してきたから個人でホームページを持ちそこで日記を書くいわゆるテキストサイトの時代も早晩終わるだろうし。そうだ変えるならいっそハンドルネームも変えちゃおう。そんなことを考え、一旦サイトを閉鎖したのが2002年11月のこと。

雌伏すること5ヶ月、2003年4月29日に『ザ・ガーベージ・コレクション』を開設し、自分はみやかけおになった。

メインのコンテンツは『相田みつおの世界』や紙芝居形式のコント動画。自分にその意識はなかったが、傍目にはやはり「FLASHアニメのサイト」と映ったことだろうと思う。つーかそもそも自分はその頃、インターネットの中でFLASHアニメのジャンルが活況を呈していることを知らなかった。そういうジャンルがあることすら知らなかった。2chも殆ど見たことがなかったし。だから結果的にFLASHサイトになってしまった形だ。

閑話休題

開設当初のアクセス数はほぼ以前のサイトの延長状態。50/日もあれば嬉しくて画面に向かって有り難いと手を合わせていた。

当時、個人サイト運営者の多くが目指したのは、まだ検索サイトでしかなかったYahoo!のデータベースに登録されることだったが、当然この程度のアクセス数では相手にされない。性格的に持ち合わせの少ない蛮勇を奮い立たせて申請したが、けんもほろろに断られた。

それが一変したのは同じ年の6月初旬。FLASHアニメを公開している個人サイトの情報を網羅し、各サイトの更新情報を知らせるまとめサイトが当時かなりの数、あった。そのうちのひとつのサイトに「のせくださーい」と登録申請をしたのがきっかけ。

申請をした次の日、その頃日課になっていたアクセス解析の画面を開いて驚いた。

50/日が精々だったアクセス数が突然、1,000の単位に上昇している。パニック。現在では1,000単位のアクセスなどたいした数ではないが、当時はまだまだインターネット自体が狭かった頃。インターネットが世間の向こう側にあり、そこに集う人々がいまよりずっと少なかった頃だ。つーかそもそも50人しかこない店に、急に1,000人の客が来て御覧なさい。そらあびっくりするでしょう。

アクセス解析からリンク元を辿るとどうやら昨日申請したまとめサイトからのようだ。慌ててそこに行きどんな紹介のされ方をしたのかと確認する。

するとどうだ、そのサイトのトップページに『相田みつおの世界』がおすすめとして別枠で掲載されている。結局その状態のまま一ヶ月ほど掲載され続けた。

閑話休題

一過性と思っていたアクセス数の増大は引きを切らない。『ガーベージ』開設に当たって新たに契約したレンタルサーバーから「転送量が多すぎて規約違反の状態にある」と警告を受け、慌てて当時インフォシークが提供していたホームページスペースの提供サービス(転送量の制限がなかった)に移転した。

アクセス数は一向に減らない。

面白かったです、と感想を記したメールが次々と届く。当時はSNSがなかったし自分のサイトには掲示板を用意していなかったからメールが唯一の直接連絡の手段だ。

ひょっとしたらいけるんじゃね、と思ってYahoo!のデータベースに再度登録を申し込むとあっさり叶う。

当時雨後の筍のごとく出版されたインターネット情報誌にサイトの紹介記事を掲載するとの連絡が来る。

新しい作品を作る。また情報サイトで紹介されてアクセス数が上がる。感想のメールが来る。嬉しい。また作る。紹介されてアクセス数が上がる。満たされ続ける承認欲求。正のスパイラル。

ブームとはまことに恐ろしいもので、元来アニメや漫画に興味がなく、2chも見ることがなく、FLASHアニメが盛り上がっていることも知らなかった自分ですら、その枠組みに入れられた途端、斯くの如く引き上げられる。

しかし時代はまだまだ世間とインターネットが別の地平にあった頃。たといインターネットで評判をとろうとも、リアルな生活にはまったく影響を及ぼさなかった。まして自分はサイトをもっていることを親類縁者、友人知己らに報知していなかったから、その暮らし向きにはなんらの影響も与えなかった。そのくらいリアルとネットの間には距離があった。

閑話休題

アクセスどーんからひと月ほど経過した2003年7月、「FLASH☆BOMB03」というオフラインイベントで『みつお』を上映する許可が欲しいと云われ、よくわからないままにどうぞどうぞと応諾した。

よくわからないままなのも失礼かと思って少しそのイベントの内容を調べたら、インターネット上でひとつのムーブメント的な盛り上がりを見せているFLASHアニメを、みんなで集まって鑑賞しようというイベントらしい。このイベントに向けた新作も上映されると聞いたような気がする。いや新作はなかったのかな。よくわかんないや。間違ってたらごめん。

FLASHアニメがムーブメントになっていると知ったのはこのとき。だがそのときは、へー。そんなイベントが成立するくらいに盛り上がってるんだー。結構なムーブメントになってるんだねー。とまるで他人事のような感想しか抱かなかった。これまで通り自分には縁のない世界の話だと思っていた。ムーブメントがなかったら自分が引き上げられることなどなかったのに、それに気付いていないのだからかなり鈍い。

FLASHアニメとそのムーブメントによる正のスパイラルはまだまだ続く。その熱に浮かされて作品を作る。紹介される。アクセスがドーン。感想が寄せられる。承認欲求は満たされ続ける。しかしリアルの生活には一向影響しない。それでも嬉しいからどんどん作り、一ヶ月に3〜4本のペースで作っちゃァ公開する。ちぎっては投げ、ちぎっては投げ。粗製乱造も良いところだが承認欲求が満たされる甘美な快感には抗えず作り続ける。おそらくいま公開している作品数の倍に相当する数を作ったはずだ。

翌2004年7月にはまたオフラインイベント『FLASH☆BOMB04』を開催するから新しい作品を作って出品しろとオファーが来た。へぇへぇと簡単に引き受けた。アニメを作る能力なんか自分にはないよ。どうせ会場に行くわけじゃないからやりにげでいいや。と思って紙芝居形式の毒舌時事ネタ漫才を出品した。内容はとてもここでは記載できないような毒塗れの代物である。あとから聞いたらけっこうウケたらしい。

閑話休題

しかし人間とは図々しいもので、この恵まれた状況にもいつしか慣れてしまう。

2004年の秋にはハイペースで作品を作るのに疲れてしまった。『みつお』にしても10本近くを作ったことですっかり飽きてしまった。少し休もう。

いま思えば、誰に頼まれて作っているわけでもないのだから勝手に休めばいいだけなのだが、当時は熱に浮かされ自分が偉くなったようなつもりになり、人々に期待されていると勘違いしているからそこに思いが至らない。

そんなことで2004年11月、正のスパイラルを捨ててもいいやと思って年内の更新をしないと宣言した。ちなみにその時、休むに当たってなんにも作らないのも気が引けるなあ、と思って一週間で作ったのが『Over the Rainbow〜十億アクセスの彼方に〜』。

閑話休題

だが休んだとて正のスパイラルはまだ終わらない。それだけFLASHアニメムーブメントの力が強かったということだろう。

2005年の冬が終わる頃だったか、先述した『FLASH☆BOMB』を主催している人々が集まり設立されたパズブロックなる、聞くだに怪しい組織から『みつお』をDVD化して出版しませんかという引き合いが来た。

自分は元来が臆病な人間である。石橋を叩いて渡るどころか、叩きすぎて石橋を壊してしまい川を渡れずやって来た道をすごすごと引き返すような性格&人生だ。そんな自分であるにも関わらずこの引き合いはうっかり受けてしまった。やはり熱に浮かされていたんだろう。FLASHムーブメントの渦中にいたんだろう。すべてはFLASHが悪い。FLASHのばか。

実際にはそれほど怪しくはなかったパズブロックの皆さんの力添えを得て、数ヶ月を費やし遂にDVDは完成した。2005年9月23日、世田谷で開催されるオフラインイベント『FLASH☆BOMB05』の当日に発表&予約受付の運びになった。

このイベントにはDVDの販促の意味もあって、作品を出品するにとどまらず、初めて会場に出向いた。前年と同様の毒舌時事ネタ漫才ネタを出品した。おまけに販促の一環だと登壇までしてしまい、こうなりゃ自棄だと舞台上でふざけまくり、1,000人近くも集まった満場の客席を爆笑の渦に叩き込み万雷の拍手を浴びた(誇張)。しかしまあ実際にお客さんには割合とウケたんだろう、イベント終了後にグッズ売り場で自ら『みつお』DVDの予約を承っていたらお客さんが結構な数、予約をしてくれて有り難かった。FLASHムーブメント恐るべし。

イベントに参加したことは、ほかの皆さんの作品をきちんと観る機会にもなった。どの作品もお世辞抜きに素晴らしく「FLASHアニメってえらい高いレベルにあるなあ」と改めて驚嘆した。なかでも、うだひろえさんのアニメーションには「うわ……本物が来ちゃったよ……」とプロの力をまざまざと見せつけられる思いでスクリーンを眺めた。

このイベントの模様はのちにDVDになって発売された。特典映像で作家の座談会を収録するというのでパズブロックの事務所に集められたのを憶えている。その中にいた和物を作風とする女性作家さん、派手に目を引く和服姿なのにちんと澄まして喋らない、なにを考えているのか見当がつかない人があって面白かった。しかし聞いたら既に家庭を持っている立派な人であると知れた。なにを考えているかわからないような人なのに。

閑話休題

ただ上のイベント当日、観客席の後方から上映中の作品を眺めているとき、客席の中に、自分の目にふと留まるような光景があった。客席の中ほど、通路寄りに着席していた50代と思しきスーツ姿の男性、この男性が一向に楽しそうな空気を醸し出さない。狭いに客席に関わらず足を組み、つまらなそうな表情でスクリーンをぼんやりと眺めている。なにか仕事の関係で仕方なしにやってきたのかな。そんな思いを抱きながらその男性を観察していた。結局、男性は最後まで拍手ひとつ送ることなくスクリーンを眺め続けていた。一体となって盛り上がる客席の中、目立つほどではないが明らかに浮いており困惑の様子が伺えた。こいつらはいったい何をこんなに盛り上がっているのだ、さっぱり理解できない……そんな意気を微弱な電波のように身体全体から発し続けていた。

その姿を見ながらふと思った。この関係性が現在のFLASHムーブメントの実態なのかも知れない。一体となって盛り上がる多くの観客たちがFLASHムーブメント、そこに入り込めずにいる男性が世間一般。だとするとこのFLASHムーブメントは世間一般とは隔絶されたところにあるのではないか。好きな人だけが集まっているということは、そのベクトルは内側へと向かい先鋭化していき、それを好きではない人には間口の狭い、入り難い空間になる。ということはFLASHムーブメントとは巨大な内輪受けの空間なのではないか。思えばこのムーブメント自体が草の根運動だ。FLASHアニメを作ることと観ることが好きな人が集まり自然発生的に出来上がったムーブメントだ。そのベクトルは必然的に内側に向く。だからこそここまで居心地が良いのではないか。世間一般とは隔絶されているが故の、暖かくやさしいコロニーの中にあるが故の居心地の良さなのではないか。

……だが、それにしてはこのムーブメントはあまりに巨大化しすぎている。内輪受け、草の根運動のレベルを遥かに超えている。ムーブメントの本質と迎えている状況にズレが生じている。

だとしたら、このFLASHムーブメントもそう長くは続かないのかも知れない。

そんな予感を微かに覚えた。1,000人近い観客を飲み込んだ会館が膨らみ切った風船玉のように見えてくる。あとは破裂するか萎んでいくだけ……。

閑話休題

いま振り返ってもこの頃がFLASHムーブメント自体のピークだったように思う。

FLASHアニメの人気と需要はその後も高くはあったが、この頃を境にその様相がすこし変わってきた。『FLASH☆BOMB』のようにFLASHアニメとインターネットが好きな人たちが集まり草の根運動的に、手作り感覚でムーブメントを起こしたこれまでの状況から、テレビを始めとする外部の力が入り込んでくる状況に変化してきた、そんな印象を受けた。

実際にラレコ氏や蛙男商会氏など、FLASHムーブメントのフレームから登場した人が、そのフレームを飛び出し世間を相手に活躍を果たすケースが現れ始めた。

自分にしても『みつお』が地上波のテレビで紹介されたり、ライブドアやアメーバが立ち上げたFLASHアニメのサイトに作品を提供するなど、これまでとは違う場所に呼ばれるようになった。正のスパイラル自体は相変わらず続いていたが、明らかに描かれる螺旋の形が変わってきていた。これは明らかに、ムーブメントのフレーム外から力が加わった為に起こったことだ。作り手と受け手が同一の地平にいる和気靄々とした手作りの空間から、インターネットやFLASHアニメに思い入れを抱かない人々を呼び込まんとする商業ベースな空間へと急速に変わっていくのを感じた。喩えるならば天岩戸が開かれ、世間の光が当たり始める状況にさしかかっていたのだろう。幸福な草の根運動の時間が終わろうとしていたんだろう。

閑話休題

インターネットそのものの状況も大きく変わりつつあった。ライブドア、楽天、Amazonなどインターネットの話題が日々刻々と世間に流れ込んでいき、世間とインターネットの間にあった隔たりが急速に小さくなりつつあった。同時に、世間の一般の価値観とは異なる独自の価値観をもっていたインターネットの空間に、世間一般の価値観が急速に流入してくる。それまでインターネットを怪しい場所としか捉えていなかった大衆が、雪崩を打ってインターネットの世界に入ってくる。インターネットと世間・大衆が急速に和合し始めた。

閑話休題

大衆は一拍遅れてやってくるが見放すときは実に冷たい。作家・小林信彦氏が植木等やクレージーキャッツについて書いた評伝にある一文。

閑話休題

『FLASH☆BOMB』も『/Up』(スラッシュアップ)と発展的にその名を変えて2006年以降も開催され、自分も2007年まで参加した。正直なところイベントの場ではしゃぎながらも先が見えないような感覚、世間の光が当たり始めたことで、世間の広さとFLASHアニメのムーブメントという草の根運動の小ささを否応無しに突きつけられているような感覚を覚えた。もう草の根運動であり続けるには、内向きのベクトルであり続けるには限界が来ていたのだろう。

閑話休題

2005年に立ち上がったYouTubeは瞬く間に話題を集め、海の向こうの出来事と見過ごせるものではなくなった。

その後を追うように2006年12月にニコニコ動画が始まった。これがFLASHムーブメントを実質的に終わらせたと思う。

FLASHアニメのムーブメントは作品が公開される作り手のサイトと、作品の感想が書き込まれる2chのFlash板、この二つを不可分とすることで成立していたように思う。その関係性を整理しパッケージングすることで間口を拡げ、”場”として確立させたんだなこれ、と初めてニコニコ動画を見たときに思った。作られた”場”があればそれに興味が薄い人でも入りやすい。常連ばかりが集まる一杯飲み屋よりも、チェーン店の居酒屋のほうがより多くの人々が入りやすい。あらかわ遊園よりも東京ディズニーリゾートのほうがより多く人が集まる。

その”場”が出来上がったあとからやってきた人々は、当然その新しい”場”に於て作品を発表する。先にFLASHムーブメントにいた人とて、その新たに産まれた”場”はよりよく整備されているものだから、じねん、発表の場をそちらに移していく。自然な成り行き。膨らみ切った風船玉にはもう新しい空気が入らず、抜けていくばかり。萎んだ風船玉に再び空気を入れたとて、風船のゴムは伸び切り弛緩してしまっていて、かつてあった張りや艶やかさを取り戻すことは出来ない。

閑話休題

2007年の秋に自分は体調を大きく崩した。まだ正のスパイラルは少し残っていたがもう無理だと思った。元来、アニメの制作を指向していたわけでもなかった。FLASHムーブメントのフレーム外から作品制作の引き合いを受けるようになって以降、感じるのは自分の力不足ばかりだ。本質的にクリエイターではない自分はもう通用しない。ここいらが潮時だ。だから割にあっさりと、僅かに残っていた正のスパイラルを自ら断ち切った。当時作った作品の大半はもう手元にない。

閑話休題

YouTubeもニコニコ動画もその後大きくブレイクした。FLASHアニメのことなどなにも知らない人々が続々とそこに集まってくる。スマホとSNSの時代になって、インターネットと世間との隔たりは完全になくなり陸続きになった。誰もがネット動画を観るようになり、遂にはそれまで娯楽の玉座に永らく座り胡坐をかいていたテレビを蹴落とすに至った。その影でFLASHは日に日にその勢力を殺がれていく。スティーブ・ジョブズがiPhoneをFLASHに非対応とする決定を下したことで、FLASHそのものが終わった技術と見做されるようになった。HTML5が登場してリッチコンテンツの主役の座はそれにとって代わられた。各ブラウザもFLASHのサポートを続々と打ち切っていき、2010年代も半ばになる頃にはもうFLASHはその死を待つばかりの状態となった。2020年12月、AdobeがFLASHのサポートを終了し、名実ともにFLASHは終焉した。あっという間の出来事だった。

閑話休題

FLASHとそのムーブメントが退潮していくのを遠巻きに見ながら、でもFLASHとそのムーブメントは見事なまでに歴史的役割を果たしたよな、と思った。ニコニコ動画の生主も、いまを時めくYouTuberも、pixivから現れる神絵師たちも、FLASHとそのムーブメントがなかったらここまで迅速にその存在が確立されることはなかっただろう。インターネットが世間と隔絶していた時代だったが為に草の根運動にならざるを得なかったFLASHムーブメント。翻って、インターネットが世間と一体化されたあとであったが為に開かれた存在になることが出来たYouTuberたち。両者に形式の差はない。あるのは”場”の違いだけだ。FLASHムーブメントの要素が、場を変えることで拡大再生産された結果が現在だ。

花が咲き果実が成る為には、誰かが種を蒔かねばならない。

FLASHとそのムーブメントはその役割を十分に果たした。表現をしたいと望む人がいかに多いかを知らしめ、インターネットにおける”作り手”の在り方を示すという種を蒔いた。インターネットが世間と同一化した現在、その種は見事に育ち、大輪の花を咲かせ多くの果実を実らせている。

閑話休題

歴史が誕生したのち、ほんの僅かな期間のみ存在する神話の時代。

ほんの僅かな期間だったインターネット黎明期。そこに存在したFLASHとそのムーブメントは、間違いなくインターネットの歴史に刻まれた神話のひとつだったと云える。世界そのものが狭かったがゆえに実現した手作りの心地よい空間。FLASHアニメが好きな人しかいない理想郷。あの時代にしか現れることがない黄金郷。あの時代が終わると共に消えていくしかなかったロマンチックな古代文明。

神々が織りなした神話の時代はやがて終わり、代わって歴史は人間が紡いでゆくものになる。いつしか神話の時代は人間の歴史と切り離され甘美な記憶に変わり、やがて「そんな時代があったんだよ」という語り草・物語になる。

自分はFLASHとそのムーブメントという神話の中では傍流に位置し、知る人ぞ知るというレベルの小さな存在でしかなかった。偉大な神々たちが躍動する中にうっかり入り込み、賑やかしをしていたただの人間でしかなかった。だが、神々が織りなす神話の中に確かにいられたという幸福な事実が消えることはない。我、これを以て瞑すべし。

閑話休題

途中から文体が変わっちゃった。つーか話がいちいち大仰なんだよ自分は。なにをひとりで盛り上がってんだなにが神話だよ昔の活字プロレスかよ馬ッ鹿みたい。でもまあいいや。うほほ。んじゃまたねーん。

2022/06/19(SUN)

さてもサイト全般の改修をしたのである。かなりの大規模な改修と思う。

ネットにあふれる情報をかき集め、つまみ食いをすることでグリッドデザイン、レスポンシブを実現しようとしたのだがどうもうまくいっている感じがしない。弱ったねぇ。

とはいえまあなんだ、プログラマーでもなんでもない人間がここまでやってるんだからいいでしょう。よく頑張ってえらいと思う。自分で自分を褒めるがえらいと思う。つーかもういい歳になっちゃったから普通に暮らしてても誰も褒めてくれないから自分だけでも褒めてやろうと思う。自分だけは自分の味方でいてやろうと思う。えらい俺。俺えらい。

閑話休題

サイトの改修と同時に新作をアップしました。『Someone to Watch Over Me』というものです。

自分の中では『十億アクセスの彼方に』『空華』と併せて三部作と思っています。とはいえ別段、それを意識して作ったわけではなくて結果的にそうなった、内包していたテーマが似通っているというだけですがね。

『空華』のときもそうだったんですが、作り始めた動機はなんか面白そう。というだけで、テーマ性などなにも考えていません。「ネット上に存在する誰かの情報の断片を集めることで、その半生を描くことが出来たら面白いんじゃね?」という考えが浮かんだだけ、ただそれだけのことで作り始めました。

それがまさかあんな大仰な結末になるとは自分でも思いも寄りませんでしたよ。だから作っている最中、いったい自分はどこに向かっているんだろうと思いながら作っておりましたよ。

とはいえそこは趣味の気楽さで、別に誰に求められて作っているわけでもないのでどうでもいいや。作っちゃえ。というんで作りました。

作品のラストの部分では結構、大きな話になっているのですが、作っている最中はほとんどそのことには気付いておりません。だから、あの結論に向かっていくような筋立てにはなっておりません。なのでストーリー性は殆どありません。作りながら、この作品が内包しているテーマをどんどん掘り起こしていった感じです。

作品のラスト部分に長文があるのですが、その中に出てくるある一つのキーワード、それが見つかった時点で、あ、この作品が内包する要素はすべて掘り起こせたな。と思いましたよ。そのキーワードがなんであるかはごらんになってからのお楽しみ、ということでひとつ。

まあいずれにしても、インターネットそのものを大掴みで考えるタイプの作品、インターネットとはなにか……みたいなことを考える作品はこれが最後になるでしょう。これだけインターネットが現実と同一化してしまったら、私にとってそれはもう考える対象には成りえませんのでね。

閑話休題

ではまあそんなことで、今後ともよろしくどうぞ。