今日、妻がSNSのアカウントを開設した。

妻は90年代半ばの産まれで現在20代半ば。だがこの年代の人間には珍しく、これまで一度たりともSNSのアカウントを取得したことがなかった。クローズドなSNSであるLINERのアカウントすら持っていなかった。

妻は幼少の頃、父親の不倫が原因で両親の離婚を経験している。その不倫のきっかけとなったのが、黎明期のインターネットで盛んに行われていたオフ会である。

妻の父は、そこで知り合った女子大生と不倫の関係に陥った。離婚後、妻を引き取った妻の母親はそれがショックだったのだろう、妻に「インターネットで人と交流をしてはいけない」と繰り返し言い聞かせた。素直な妻はそれに従い、今日までインターネットで自ら発信をすることをいっさいしなかった。

だから、妻の情報がインターネット上に存在しているとは思っていなかった。



話は一年半ほど前に遡る。

ある日曜日のこと。その日、妻は休日出勤を強いられ朝から不在だった。私は、家事をこなしながらその合間にインターネットを閲覧するなどして、のんびり休日を過ごしていた。

そんな中、ふとそんな気になって妻の名前をネットで検索してみた。

どうせ何も見つかるはずはない、見つかったとしても私や妻の親友が投稿したSNSくらいのものだろう、なにしろ妻は自分からネットに発信したことはない。また、人に聞かせて話すほどの劇的な人生を歩んできたわけでもない。そう思いながら検索結果を閲覧すると豈図らんや、予想外に妻の情報がヒットした。見つかったのは妻の中学時代、陸上大会に出たそのレース結果であった。

あれ? 私の知らない妻の情報がある。私は狐につままれたような気分になった。ひょっとしたら他にも見つかるかもしれないと、更なる妻の情報を探し始めた。

するとどうだ、妻の幼なじみが妻について書いた中学時代のブログがまず見つかった。さらに探すと妻が小学生の学習発表会の演劇で主役を務めた様子を伝える学校のページが見つかった。あとは数珠つながりのように次々と見つかってゆく。妻の元カレのケータイ日記が見つかった。妻の小学校入学時の様子が見つかった。妻の父親が警察のご厄介になった情報が見つかった。果ては妻の母親が妻を身ごもったことが記載されたパソコン通信のログまで見つかった。

なんということだろう。妻の名前を検索し始めてから僅か3時間ほどで、大変な量にのぼる妻の情報がネット上で見つかってしまった。

それら情報を時系列順に並べ替えると驚くなかれ、妻の辿ってきたこれまでの半生が追えるほどになってしまった。

私は空恐ろしいような、どこか落ち着かないような気分に陥った。


休日出勤を終えて帰宅した妻にそのことを話す。

すると妻は特に驚いた様子もなく「そういう時代だからしょうがないんじゃない」と恬然としている。どころか、私が見つけた情報の数々を懐かしがって次々に閲覧していく。そうして嬉しそうに、その時々の状況を私に説明して聞かせる。

私が見つけた数々の情報をひとしきり閲覧し終えると、妻は平気な様子で私が沸かしておいた風呂に入り、ふんふんと軽い調子で鼻歌を歌い始める。


微かに聞こえてくる妻の鼻歌を聞きながら、私はひとりリビングで考え込んでしまった。


果たして、こんなことがインターネット以前にもあったのだろうか。


有名人でもなんでもない、市井の人間の生活が、その半生を描けるほどに記録され、公開されている。そんな状況がかつて人類に訪れたことがあっただろうか。

繰り返すが、妻は能動的に自らの情報を発信したことはない。ここで私が見つけたのは、妻以外の誰かが妻について言及したものばかりである。

さらに言えば、妻のこれまでの半生は平凡たるものだ。取り立ててドラマチックなものではない。幼少期に起こった両親の離婚や、中学生の頃に遭ったいじめの経験などは、妻にとっては辛い体験であっただろう。だが世の中全体を俯瞰すれば普遍的な出来事に過ぎず、取り立てるほどドラマチックなことではない。その妻の情報ですらここまで容易に見つかるのだ。

ならばこれが、自らの生活を能動的に発信をする人物、或いは世にも珍しいような数奇な運命を辿った人物だったらどうなるか。それまでの人生のほぼすべてがインターネット上に記録・公開され、世界中の誰かから閲覧されている、ということになりはしまいか。


果たしてこの事は何を意味するのか。

その後、考え続けること数日間。そうして私は、一つの考えにたどり着いた。

……インターネット・SNSが現れたことで人々の生活・人生の在り方が変わってしまったのではないか、と。


人生。当然ながらそれは自分のものである。著名人でもない限り、その人の人生・生活が不特定多数に向けて公開・共有されることはない。自分の人生が他の誰かに公開・共有される可能性があるとしたら、それは直接顔を合わせ、直接会話が出来るような、ごく近しい関係の人間に限られる。たとえば家族。たとえば恋人。たとえば会社の同僚。たとえば同級生。

だが、インターネット・SNSが現れたことで、その大前提は崩れてしまったのではないか。


インターネット・SNSが世の中に現れたことで、自分の生活圏内にない人々や一度も会ったことがない人々、いわば見ず知らずの人々に対しても、自分の人生がインターネット・SNSを通じて公開され、共有されることになったのだ。たとえ私の妻のように、能動的に情報を発信したことがない人間であっても、これほど多くの情報がインターネット上で見つかってしまう。私たち人間を取り巻く環境が、インターネット・SNS以前の時代とは完全に変わってしまったと思わざるを得ない。


人間は、自身を取り巻く環境の変化に対応し、その在り方を変貌させていく。だから当然、インターネット・SNSが浸透した現代にも適宜対応し、その在り方を変貌させる。


かつて私の親が繰り返し言っていたことがある。

「カラオケボックスが出来てから産まれた世代はみんな歌が上手い。自然に音程やキーを合わせることが出来る」

なるほど、私たちの親世代には信じられぬほどに音程やリズムを取れぬ人が、比較的多く見られる。比べてみれば確かに、私たちの世代の方が歌の上手な人は多い。

私も近年、似たようなことを思う。

学校でダンスの授業が必修化されて以降の世代には、ダンスの上手い人がまことに多い。リズムに乗って体を動かすことが自然にできる。SNSのショート動画を見ると、みな気が触れたのではないかと思うほど多くの人が踊り狂っている。私を含めたダンス必必修化以前の世代は、ここまで自然に踊ることは出来ない。

然るに、インターネット・SNSが当たり前の時代に産まれ来る子供たちはバズること、映える表現をすることが、我々とは比較にならぬほどに上手くなっていくのだろう。舞台の上で演ずる役者さながらに他人の目を意識し、よりバズり、より映えるようにと自らの言動を派手なものへと変えていくことになるのだろう。



この世は一つの舞台だ。すべての男も女も役者に過ぎない。

それぞれ舞台に登場しては消えていく。

人はその時々にいろいろな役を演じるのだ。



シェイクスピアが『お気に召すまま』で書いた台詞。


成程、シェイクスピアの昔からこの世は舞台であり人はみな役者であった。

だが、インターネット・SNS登場以前、そのように喩えられてきた人生・人間には、本物の舞台と比べてひとつ、不足している要素があった。


観客の存在である。


シェイクスピアが喝破したように、社会生活を営む上で人間は誰しも「置かれた立場」という役を演じている。

会社員は会社という舞台の上に立ち、その役を演じている。同僚、上司、取引先、その人を取り巻く人々はその共演者だ。ときに協力をし、ときに反目をしながら仕事という芝居・物語を終幕まで進めていく。

家庭もまた然り。夫、妻、子がそれぞれ手を携え、家庭という舞台で、日常生活という芝居・物語を紡いでいく。

だが、そうしたこれまで存在した社会生活という舞台に観客は存在しなかった。そこで展開される芝居は、その舞台に立っている役者の間のみで完結するものだった。観客という関係のない第三者に見せるものではなかった。

インターネット・SNSはそれを持ち込んだ。人々の人生に、日々の生活に「観客」の存在を齎した。


観客!


それは、展開される舞台を、その演劇空間の向こう側から遠巻きに見ているだけの存在。物語の進行には一切かかわることがない、舞台上で繰り広げられる芝居・物語とは無関係な傍観者の集まり。それでいて、舞台の幕開きには絶対欠かせない存在。

そこに舞台があり、役者がいる。それだけでは舞台の幕は開かない。それを見る観客がいて、初めて舞台は幕を開けることができる。

この世が一つの舞台であり、人がすべて役者なのだとしたら、観客が存在しなかったインターネット・SNS以前は、真の舞台ではなかった。観客不在で進行する舞台は稽古に過ぎない。

インターネット・SNSが、人生に観客を持ち込んだことによって稽古の時間は終わり、とうとう人生という物語の幕が真に上がったのだ。この世は真に舞台となったのだ。



いま、妻が我が子の為にミルクを作っている。キッチンの上には至極可愛らしい哺乳瓶が置いてある。妻は、人肌に暖めたミルクをそこに注ぐ。それから、まるでそうするのが当たり前だといわぬばかりに、ミルクの注がれた哺乳瓶をスマホで撮影する。

数分後には、撮影された哺乳瓶、或いはそれを飲む我が子の姿を収めた写真・動画が、妻のSNSに投稿されることだろう。

その後ほどなくして、妻のアカウントをフォローする人たちがその写真・動画を見ていいね!やスキ!を押し、コメントを寄せることだろう。

また妻にしても、その哺乳瓶を購入するに至った最大の理由は、我が子がミルクを飲む様子をSNSに投稿した際、それを閲覧した人々に「かわいい!」とより強く、より多く思ってもらいたいが為だ。仮にインターネット・SNSがなかったとしたら、妻がここまで哺乳瓶に見た目の可愛らしさを求める事はなかっただろう。SNSを始めたばかりの妻でさえ、判断の基準が、自分と家族以外の人々の目を意識したもの、すなわち観客の目を意識したものに変わってしまっている。

私の家という舞台。妻と我が子という役者。役者である私たちが織りなす生活という物語。そして、インターネット越しにそれを見る閲覧者という観客。斯くして必要な要素は揃った。舞台の幕は華々しく開いたのだ、インターネット・SNSを獲得したことによって。


ショウ・マスト・ゴー・オン。幕が開いたら演じなければならない。人生がそのように変わったのだ。インターネット・SNSの獲得でこの世のすべてが本物の舞台に変わったのだ。

この舞台には、舞台袖も舞台裏も楽屋もない。役から離れ、素の自分に返る為に逃げ込む場所はどこにもない。観客は常に存在している。あらゆる場所から、誰かが私を見つめている。


喜び。怒り。哀しみ。楽しみ。あらゆる感情は、最早私の内部だけで完結するものではなくなった。妻や我が子、両親や同僚といった、ごく近しい関係性の中だけで完結するものでもなくなった。私を見つめる誰かに向かって「その感情を抱いている私」を表現することで、初めて完結するものとなったのだ。ならば見せるしかないではないか。見せる。演じ続ける。踊り続ける。晒し続ける。いま、そこにしか人生はない。


私は考える。

この変化を齎したのは誰か。それは我々人間だ。我々が人生に観客の存在を求めた結果、インターネット・SNSが人間に齎されたのだ。この変化は、人類に訪れた進化の一形態……道具を使った猿が、人類へと進化したのと同じことだ。

インターネット・SNSが産み出されたことの意義はこれに尽きるのだろう。人々の人生に「観客を与えるという進化」を齎すため、この世界に産み落とされたのだ。SNSの発達と浸透によりその進化は現実のものとなった。それも、この上ない完璧な形で。

実現されたという事は即ち、その役割を終えたという事だ。人々の生活に革新を齎すものとしての役割を、インターネットは果たし終えたのだ。

役割を終えたのであれば、あとはただ、古びていくしかない。テレビや新聞がそうであったように、何十年もの長い時間をかけて、ゆっくりと、ただひたすらに、古びていくばかりだ。



いま、妻が我が子にミルクを飲ませ終えた。

私はそっと妻と我が子に寄り添い、二人に温かいまなざしを送る。そしてやさしい声で語りかける「よく飲んだね」。

「うん。でも近ごろは、自分で飲むのをやめたりするよ。この子にも自分の考えが出てきたんだろうね」そう言って妻は私に向かって微笑みかける。

我が子が、そんな私と妻を互い違いに見て無邪気に笑う。

私の心は幸福感で満たされる。

だが、幸福感で満たされているはずの私の心、そのほんの僅かな部分に、観客の目を意識する私が存在している。

私たちを見ている誰かに、私たちのこの幸せな姿を見せたい。私たちが幸せな家族であると思ってもらいたい。

インターネット・SNSを獲得して以来、心の底に蟠り、澱のように在り続け、消えることがなくなったこの思い。

その思いに突き動かされ、私と妻がそれぞれのスマホを取りだす。そうしていまの私たちを撮影する。幸せな私たちの家族の姿を、インターネットの向こう側で私たちを見ている観客に見せる為に。

それが、この世という舞台で、人生という物語を演ずる役者である私たちが、いま、為さねばならぬことなのだ。



斯くして、この世は、人生は、人間の存在は、完全なる虚構になった。



さあ、お楽しみはこれからだ!