と、そんなことを思っていると、妻が肘で小さく若旦那を突く。すると若旦那が思い出したように「どうか旅にお役立てられますよう」と店の売り物であるひのきの棒をおずおずと差し出した。その声はか細く、みれば若旦那の顔色は最前にも増して悪くなっていてもはや土気色と化し目は落ち窪み焦点すら定かではない。余程体調が悪いのだろう。
ひのきの棒を受け取るとこんどは妻が「いつかあなたが討伐の旅に出る日が来るものと常に覚悟をいたしておりました。来たるべきこの日のために、私はこちらの御主人に武器を融通していただけるよう以前から頼んでいたのです。その日が遂にやってきたのです。どうかご立派に使命を果たされますよう」と云って深々と頭を下げてからそっと微笑んだ。私はその瞬間に全てを理解した。
つまるところ、妻がこの店で女将の如くに振る舞っていたのは、すべて私のためを思ってのことであったのだ。その働きにより私はこうして出立に際して必要となる武器を無償で得ることが出来た。内助の功とはこういうものかと得も云われぬ感激が私の全身を貫く。
だが感傷に浸っている時間はない。どうもありがとう、と二人に礼を述べて店を辞そうとした。ところへ妻が私に声をかけて驚くべき事を云った。
「出来れば討伐の旅に娘も連れて行ってはくださいませんか」
我が耳を疑った。娘と云えば先日ようやく五歳になったばかりではないか。私は妻にそれは無理だ、私は生死の如何も判然としない危険な旅に出向くのであり近所の公園に遊びに行くわけではないのだ、と答えた。普段は私がこうして意見する事で経ち切れるはずの二人の会話だが、今日にかぎっては妻も引かず、娘を連れて行ってくれなければ困る。これから長いあいだ父親の顔を見ずに過ごすあの子の不憫を考えたことがあるのかと云って聞かない。最前までの柔らかな微笑みは消え、目つきの鋭さが甦っている。なるほど、妻の性格を知らぬ人が博打打ちの目だと評するのも無理からぬことと思った。
然しこれについては事が事だけに私も首を縦に振るわけには行かない。私が居ないことで被る娘の不憫は、母親たるお前やその両親である義父母が慰撫してやるべきものだろうと反論したが、やはり妻はそれは無理だと強情を決め込んでいる。曰く。
あなたが居なくなれば、お父さん子であるあの子はあなたに会いたいと四六時中泣いて過ごすに決まっている、そのような辛い姿に母親たる私が絶えられよう筈が無い、加えて一家の働き手たる夫で父親で家長のあなたが居なくなることで起こる暮らし向きの苦労をどう考えているのか……妻は一息にそう云うとカウンターに突っ伏し、わっと声をあげて泣き出した。