暮らし向きの苦労と云っても勇者の末裔たる私の家系は、今回のような有事の際に備え続ける宿命を負っている為、国から日々の暮らしに事欠かないだけの恩給を賜っている。そのことは私と結婚する前から分かっていた筈であり、そうした経済的に恵まれた境涯にある我が家になんの暮らし向きの苦労があるものか。とも思ったが、妻が私に対して初めてあらわにした強情、更には流した大粒の涙はやはり彼女も母親、故に我が子を不憫に思う気持を人並み以上に持ち合わせていると思わせるのに充分であった。
成る程、考えてみれば仮に私が魔王を討伐して世界の平和を恢復したとて、目の前にある家族の安心を破壊するような事があっては、それこそ冠履を貴んで頭足を忘るの喩えだ。
わかった。娘を連れて行く。
そう妻に告げるとその表情に喜びの色がさした。その結果、目つきの鋭いところへ、母親の慈愛からくると思しき笑みが交じり合ったためによく判らない表情になってしまったが、妻が心からの喜びを感じていることは手に取るように判った。この瞬間、苦楽を共にしてきた夫婦のみが分かち合える感情が立ち上った。
そうした夫婦間の感情は勿論のこと、私たちの会話にすら加わることが出来ず妻の傍らでぼんやりと立ち尽くしていた若旦那が突然あっ、と小さく云ってから周章てて売り場に廻った。若旦那は店でいちばんの高値がつけられている銅の剣を採り上げると恭しく私に差し出した。なかなか粋なことをするものだ。礼を云ってからそれを受け取り、最前もらったひのきの棒を返した。
妻にしばしの別れを云ってから店を辞去した。背後から妻と若旦那の会話が聞こえたような気がしたが私の別れの言葉に対する返答はない。然しながら登城ならびに出立を急がれている身の上、振り返る事なく私は先を急いだ。