「勇者様。私です。吟遊詩人です」
 ノックの音に続いて聞こえてきたのはやはり吟遊詩人の声であった。私はすぐに、それでいて娘が起きないようにとそっと扉を開けた。
 ご準備の方は、と云う吟遊詩人を制して寝ている娘を手で指し示す。吟遊詩人はすべてを諒解して小声で話す。
「この時間になれば魔物の戦闘力も十分に下がっているはずです」
「準備は万端整っています。早速向かいましょう」
 吟遊詩人にそう答えてから大魔道士を見やる。大魔道士は手にしたハンカチで涙を拭っている。大丈夫かと声をかけると無言で何度もうなずく。魔法を操る腕は見事なのだがなにかあるとすぐに泣き出すのは困り者だ。やはりどこかまだ小供なのだろう。
 すやすやと眠る娘の寝顔に必ず戻ってくるからなと心中で声をかけてから部屋を後にする。その声が届いたのだろうか、娘はむにゃむにゃと寝言を云いながら微笑みを浮かべた。私にとって百人力に相当する笑顔だ。
 深閑とする闇の中を月明かりに照らされて私たちは魔物のもとに向かう。先頭を行くのは道案内を務める吟遊詩人、次いで私、しんがりに大魔道士がついて一列縦隊を組んで歩く。

 小さな村のことであり目指す場所には直ぐにたどり着いた。城下町でも滅多にお目にかかれないような豪邸、その前に我々は立っている。邸の明かりはすべて落とされ、深更の闇に溶け込むようにひっそりと佇んでいる。大魔道士が誰に云うでもなくぽつりと云う。「魔物がいるとは思えないほど静かね」
 吟遊詩人がそれに答えて云う。「寝ているのでしょう、おそらく」
「寝てるんですか?」私は驚いてそう尋ねた。
「えぇ。先ほど申し上げたように、魔物は取り憑いた人間の普段の行動を踏襲します。この村でこんな夜更けに起きている人間はいません」
 だとすれば形としては寝込みを襲うことになる。正々堂々を旨とする私の信条に反するがそんなことにこだわっている場合ではない。
 大魔道士が再び云う。「でもちょっと気が引けちゃうかも知れないな。だって、魔物が取り憑いているとは云え、見た目は人間なんですよね」
 吟遊詩人が答える。「そうです。傍目には普通の中年のおじさんにしか見えません」
 それを聞いた大魔道士の目に見る間に涙が溜まっていく。
 よろしければ扉を開けますが、と吟遊詩人が私と大魔道士に向かって云う。