グランゴランの洞窟、結界が張り巡らされたその入り口の前に大魔道士が、恰も結界に挑むかのような緊張をもって立ち向かっている。
 大魔道士は、静かに目を閉じ、右手を天に向かって差し上げる。次いで人さし指をピンと伸ばしてから大きく息を吸い込んだ。
 そのまま停止すること十数秒、突然カッと目を見開き結界に向かって何事か呪文を唱えた。
 結界は消滅しない。
 大魔道士に僅かながら焦りの色が伺えたがすぐに平静を取り戻し、再び右手を天に向かって差し上げ人さし指を伸ばす。またもや何事か呪文を唱える。
 結界は消滅しない。
 大魔道士の表情に完全な焦りの色が見て取れる。僅かに息も乱れているようだ。それを整えるように小さな深呼吸を二三度繰り返してから三たび、右手を天に向けて差し上げ人さし指を伸ばして呪文を唱える。
 結界は消滅しない。
 気まずいような、微妙な空気があたりを支配した。大魔道士はその空気を振り払うようにして、次々と呪文を唱えた。
 しかし結界はウンともスンとも云わない。何やら我々ををせせら笑っているかのようだ。
 大魔道士は明らかに苛立っていた。意外と気が短い人物なのかも知れない。
 手持ちの呪文が一巡してしまったのだろうか、大魔道士はいちど唱えて効果のなかった呪文を再度唱え始めたが、無論、結界は相変わらず消滅しない。大魔道士は完全に苛立っていた。こうなると気が短いとを通り越して癇癪持ちにしか見えなくなってくる。
 大魔道士の呪文は遂に四周目に突入した。大魔道士から次第に焦りと苛立ちの様子が色濃くなってくる。
 同じやり方を繰り返し、違う結果を期待するのは狂気の為せる技である。
 そんな言葉が脳裏を過りそうになるのを必至になって押し留める。目の前にいるのは伝説の魔法使いの末裔であるところの大魔道士なのだ。なにか、私などには想像も出来ない高邁な理由があってこれを繰り返しているのだろう。
 呪文は六周目に突入し、失礼ながら次第に飽きてきた。目の前のことから意識が離れ、気がつくと私の脳裏には妻や義父母の姿が浮かんでいた。
 「あのう、すみません」
 大魔道士が声をかけてくる。私は不意を衝かれて少し慌てて返事をする。


「なんでしょう」
「申し訳ないんですけど、少し離れていていただけませんでしょうか」
「離れる、と云いますと」
「ちょっと危険な効果を生み出す呪文を唱えたいのです」
「わかりました」
 私は大魔道士から二十歩ほど離れ、このくらいでいいですか、と声をかけた。大魔道士は結構です、と返答をしてから更に続けて、
「それでもまだ危ないかもしれないので、むこうを向いていてください」
「こうですか」
「できたら目もつむってください」
「つむりました」
「ありがとうございます。まだ私の声が聞こえてますか」
「はい」
「でしたら念のために耳も塞いでください」
「はい」
 両耳を手で塞ぐ。ぼわーん、と耳を覆った掌の中で音が反響しているのが聞こえる。その間隙を縫うようにして微かに大魔道士の呪文が聞こえてくる。何やらそれは、単なる怒声のようにも聞こえたが、耳を塞いでいる為にその仔細については聞き取ることが出来ない。そのくらいの勢いと力強さで唱えなければならない強力な呪文なのだろう。
 手ずから産み出した静寂と暗闇の中で待つ。しかし中々、大魔道士から次の指示が送られてこない。結界は消滅したのか。いつまでこのまま待たされるのか。
 どのくらいの時間が過ぎたのだろう。肩を叩かれ目を見開くと、大魔道士が私の顔を覗き込んで微笑んでいた。
 眩しさに目を細めつつよく凝らして見れば……結界は見事に消滅していた。
 消えてるじゃないですか、と思わず声をかける。これで洞窟への進入、ならびに伝説の盾の獲得に大きく前進したことになる。
 それにしてもいったいどのような呪文を使ったのか。というか、あれほど同じ呪文を狂ったように繰り返す前に、端からその呪文を使えば良かったのではないか、とも思ったがまさか大魔道士に向かってそのような失礼なことを口走るわけにはいかない。
 大魔道士の能力の程に対して、素直に感心をしてから(もちろん、この感心に嘘は無い)洞窟の中に入って行った。平静を取り戻した様子の大魔道士も後からついてくる。