ついには、おばさんのうちの一人が私にサインを書くように要求してくる。
 私のことを役者か何かと勘違いしている。はっきり云って、うざい。しかも、ここに書くことすら憚られるようなモノを指し出して、それにサインを入れろとせがんでくる。
 私は確かに伝説の勇者の末裔だが聖人君子ではない。魔王が復活を果たすつい先日までは普通の暮らし向きをしていた。従って、時と場合によっては立ち小便ぐらいのことは平気でする普通の男だ。
 さすがにおばさんの片方が「それ」にサインを入れろと云うのは酷い、と窘めると、ならばサイン色紙を買ってくるともう一人がその場を離れる。やっとのことで女性二人連れから解放された。周章てて宿屋の中に入る。
 すると、異様な光景が私の目に飛び込んできた。
 大魔道士がロビーの棚の上に乗って泣いている。
 わけがわからない。

 察した女将が大魔道士に何事かを語りかけると、大魔道士は泣きながら棚の上から降りた。
 さあ、大魔道士に時を移動する魔法を唱えてもらわなければならない。と、そのとき。
 宿屋の表から女性の悲鳴が聞こえてきた。



 すわ何事、と表に出てみると、ローブのような立派な衣装に身を包んだご老人が、覚束ない足取りで惚けたように歩いている。彼方から、最前サインをねだった女性二人連れが魔物、魔物と叫び声をあげて走り去るのが見えた。
 魔物? どう見ても人間の老人だが……なぜあの二人が逃げ出すのか皆目判らない。
 困惑の態でいると、宿屋の女将が出てきて老人と何事か言葉を交わす。その内容は聞き取れなかったが、魔物と対話しているようには見えない。
 しかし魔物という声を聞いた以上、このまま捨て置くわけにもいかない。誰何し、仮に魔物であるならば討たねばならない。
 そう思って歩を進めたところで、涙顔だった大魔道士が進み出て怒声の調子で呪文を唱える。
 天から降り注いだ一筋の雷が、魔物と呼ばれたご老人の体を貫く。魔物と呼ばれたご老人はその場に崩れ落ち、そのまま動かない。
 もう何度目かになる突然たる大魔道士の強力な魔法。呆気にとられていると、女将が大魔道士に向かって本物の怒声を発する。その口調はそれまでの優しいものとは異なり、たとえるならば、孫を叱りつける厳格な祖父のような激しさであった。