IT業界に身を置くものに限らず、世の中の殆どの人がその存在を知りながら重要視されないもののひとつに「迷惑メール」がある。いま、国内だけでも24時間のあいだに9万を超える迷惑メールがネット上を行き交っている(総務省・IT白書2009より)。いずれのメールソフトにも強力な迷惑メールフィルタの機能が搭載され、迷惑メールがユーザーの目に触れる機会は減少の一途を辿っている。しかし、こうした状況下にあっても、着実に送信メールをユーザーの目に触れさせ、ビジネスに結びつけている例も少なからず存在する。そうした企業の担当者が口を揃えて「この人にお世話になった」と名前を挙げるのが株式会社チーム・ブランケットの山田不可止氏だ。読まれるに相応しいメールの内容を各企業にコンサルティングするという、国内唯一にして随一の仕事であり、またその仕事ぶりは”匠”と呼ぶに相応しい。そんな山田氏に迷惑メールの現状と未来について伺った。
■やぶれかぶれの中で、夢を見た二人の男
——まずはチーム・ブランケットという会社について教えてください。
山田 ご存知ありませんですかねぇ、IT・人をごらんの皆さんは(笑)
——迷惑メールづくりのコンサルタント、というのは、なかなか表にお出になる活動ではないと思いますので……
山田 それもそうですね(笑)そもそもは1980年代の後半にウチの社長である高橋(健太氏)が起こした株式会社「毛布」が母体となっています。その頃はいまのようなテクノロジーとは無縁の会社でした。
――どういった業務を行っていたのでしょう。
山田 ナンパ代行業です。
――当時、結構話題になっていましたね。
山田 私はその頃まだ子供でしたから実情を知る由もないのですが、湘南海岸を中心に中々手広くやっていたようですよ。高橋はナンパの達人として男性誌にいくつかの連載も持っていたそうです。
――ナンパのコンサルタントと言えなくもないですね。
山田 ですね。(笑)言われてみれば今の業務に繋がらない事もないですね。その後、世の中がバブル景気に入り、雑誌の連載の他にテレビ出演なども増えてきたのを機会に会社組織として、先程言いました株式会社「毛布」を起ち上げました。1989年の事です。
――私もその頃、テレビで高橋さんのお姿を拝見した記憶があります。
山田 私もです。ブスっ子クラブの皆さんとCMにも出てましたね。
――ありましたありました。
山田 それからバブルの崩壊があってテレビや雑誌への露出が激減し、活動を停止してアメリカに渡ります。これからはパソコンだというので、何の伝手もないままにシリコンバレーに飛ぶんです。
――ずいぶんと、アクティブですね。
山田 当人は破れかぶれだったと言っていますが(笑)
――そこで山田さんに出会うわけですね。
山田 はい。日本で大学受験に失敗した私はすべてが嫌になってアメリカでヒッピーのような暮らしをしていたんです。思えば私も破れかぶれでした。
――シリコンバレーでお会いになったのですか?
山田 はい。パソコンは子供の頃から好きだったので、気がついたらそっちに足が向いていたという感じですね。
――出会った場面は憶えていらっしゃいますか?
山田 パソコンショップです。マイクロソフトの本社から車で四時間半くらい北上したところにあるひなびた街のお店でしたね。四方を山に囲まれたようなとんでもない田舎でした。その街にぽつねんと、それこそガレージの中にほこりを被ったパソコンが置いてあるだけ、みたいな店でした。露店といわれても納得してしまうような。私は子供の頃からパソコンが好きでしたから、そこでほこりを被ったApple
IIGSやAMIGA1000、コモドール64なんかを矯めつ眇めつしていたんですね、お金もないのに。そこへフラッと高橋が入ってきたんです。高橋もシリコンバレーで相当にひどい扱いを受けていたみたいで、お互いが日本人だと解ると、それだけで意気投合してしまって。その日はなけなしのお金で買ったビールやウィスキーを朝まで飲み明かしました。夢を語り、これからはコンピュータの時代、それもネットワークでビジネスが出来る時代だ、なんて熱く語り合いました。95年の春でした。
――高橋さんは何故パソコンに興味が向いたのでしょう?
山田 さぁ……それは聞いたことがありませんが、なにしろナンパ師ですから、最新の話題には常にアンテナを張っていたんじゃないでしょうか。女性に声を掛けた後に、話題が尽きてしまったらそれまで、ということになるようですし。
――なるほど。高橋さんはその頃シリコンバレーでどのような事をなさっていたのでしょう?
山田 そのあたりの事は今もって話してくれないんですよ。相当にひどい状況だったんでしょうね……。
――そうですか……95年の夏に帰国をなさったんですね。
山田 えぇ。幸いな事に高橋の会社が休眠状態にありましたので、それを使って東京都・町田市に六畳一間のアパート、それに貸し倉庫を借りてパソコンショップ「MO-FU」を起ち上げました。開店に必要な資金は高橋が以前に造り上げていた人脈を利用して調達しました。昔とった杵柄だよ、と高橋が苦笑いをしながら札束を手に、社に戻ってくる姿をいまでもはっきり憶えています。
――希代のナンパ師の面目躍如といったところですね。
山田 腕はまったく錆びついていなかったようです(笑)
――通販が中心のお店だったと伺っています。
山田 はい。私と高橋が出会ったシリコンバレーのガレージのようなパソコンショップを見ていて、通販中心ならば実店舗は要らないんじゃないか、という話をしていたので。いまにして思えば大変に原初的なAmazonといったところでしょうか(笑)また、うまい具合にWindows95のブームにもぶつかりましたし。
――うまく廻り始めましたね。
山田 えぇ。ただ、通販をしていたのは実質的には最初の半年くらいで、その後はインストラクター的な内容に業務の中心軸が移りました。パソコンは導入したが使いこなせない、そんな中小や零細の企業、或いは主婦や学生の方々が多くいらっしゃいましたので。96年の末にはすでに通販は売り上げの2%程度に縮小していました。
――当時すでにインターネットの導入を積極的に推し進められていたんですよね。
山田 内之倉という、いま、我が社の技術部を統括している人間が大学の工学科を中退して入社してきました。彼がいなければ当社の現在はなかったかも知れませんね。ちょうど経済誌を始めとして、企業の周辺にインターネットの話題が取りあげられ始めた頃でした。これをを他に先駆けて導入したいという中小や零細の企業、あるいは商店などに多くのご提案をさせて頂きました。99年にはそちらの業務が売り上げの95%を占めるようになっていました。
――会社も急速な成長を遂げられたようですね。96年度から99年度までの4年間で年商が毎年220%ずつ伸びていらっしゃいます。
山田 私ども自身は、シリコンバレーの片隅で高橋と夢を語り合った18歳の頃となにもかわっていないんですが(笑)、時代のほうが、私どもにとって都合のいい方向に勝手に変わってくれた感じがします。"時代"と云う巨大なベルトコンベアーの上に乗ってすーっと来てしまったような印象ですね。
――00年7月に山田さんを中心に株式会社チーム・ブランケットを起ち上げられます。
山田 やっと話が現在に近いところまでたどり着きましたね(笑)
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